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田中貢太郎(たなか こうたろう、1880年(明治13年)3月2日-1941年(昭和16年)2月1日)は日本の作家、号は桃葉。著作は伝記物、紀行文、随想集、情話物、怪談・奇談など多岐に渡る。 == 略歴 == 高知県長岡郡三里村(現:高知市仁井田)に生まれる。生家はかつて土佐藩御用達の船問屋だった。漢学塾に学び、代用教員、高知実業新聞社の記者を経て上京し、郷里の先輩大町桂月に1903年(明治36年)から終生師事した。他に田山花袋や田岡嶺雲に師事、その著述活動を補佐した。同郷の幸徳秋水とも交流があった。1909年(明治42年)に、嶺雲最晩年の作品『明治叛臣伝』の大半を代筆、秋水が大逆事件で刑死した後に「秋水先生の印象」を記した。後に回想で「一歩間違えると自分も巻き込まれていただろう (大意)」と述べている。処女出版は『四季と人生』で1911年(明治44年)刊。 滝田樗陰に認められ大正期から『中央公論』「説苑(ぜいえん)」に、情話物、怪談話などを掲載した。共に連載していた村松梢風とは終生の友人だった。晩年の1934年(昭和9年)の8月より、同人誌『博浪沙 月刊随筆』を主宰、多くの作家たちを育てた。弟子や友人に井伏鱒二・尾崎士郎・田岡典夫・富田常雄・榊山潤らがいる(後期は田岡典夫が編集担当で1943年10月まで45号が発行された。なお1981年に4分冊で復刻された)。 多数の郷土史や、幕末・明治維新期の資料編纂にも当たった。浜口雄幸(土佐出身)や、西園寺公望の伝記も執筆している。また土佐出身の言論人らしく「いごっそう気質」があり、「老臣田中光顕翁」(『中央公論』、1932年11月号に発表)で、田中光顕 『維新風雲回顧録』(土佐脱藩志士で元宮内大臣、口述筆記で1928年に公刊)を、「己を大きく見せるため粉飾した (大意)」と酷評。時には維新の顕官であっても直言・批判している。 1939年(昭和14年)に『林有造伝』を、取材執筆のため土佐に戻ったが、翌40年2月に宿泊先の安芸市の旅館で倒れ病が発覚、一時は持ち直し伝記は完成させたが、秋頃から再び病状が悪化、翌41年初頭に郷里(現在の高知市種崎で生家の近所)にて没した。生家跡に「田中貢太郎先生誕生地」の記念碑、近所の桂浜には「桃葉先生之碑」が建つ。高知県立図書館には、貢太郎の遺品・資料等が多数保存されている。 著名作に、回顧記・紀行などの文集『貢太郎見聞録』、1929年から総計530回にわたり新聞連載された大作『旋風時代』、翻案物である『日本怪談全集』、『支那怪談全集』がある。ほかに論語、大学・中庸などの経書に関する作品も著すなど、生前に五十数冊を刊行した。 とりわけ怪談物は蒐集と再著作に努め、総数は約五百編に及んでおり、今日まで度々再刊されている。中国古典小説では 、各時代の〈伝奇小説集〉や『紅楼夢』、『聊斎志異』、『剪灯新話』などを愛読し、特に短編集である後者2作品は一部自由訳を行っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中貢太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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