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田中 マルクス闘莉王(たなか マルクス トゥーリオ、1981年4月24日 - )は、日本のプロサッカー選手。ブラジルのサンパウロ州出身。主なポジションはディフェンダー(センターバック)。元日本代表。 父親が日系ブラジル人で母親がイタリア系ブラジル人のハーフ。2003年に日本国籍を取得〔ニッケイ新聞:あるぜんちな丸同船者寄稿集 〕。旧名はマルクス・トゥーリオ・ユージ・ムルザニ・タナカ(Marcus Túlio Lyuji Murzani Tanaka)。「サムライ闘莉王〔矢内 2009、12頁〕」の愛称で親しまれているほか、「闘将〔朝日新聞 2010年6月14日付夕刊、13頁〕」の異名を持つ。 == 来歴 == === 生い立ち === 父方の祖父は広島県出身、父方の祖母は富山県出身で共にブラジルに渡った日系移民である。父親は日系ブラジル人二世で、自身は日系三世〔〔海外移住資料館だより 第14号 〕〔中国新聞 サンフレ新人素描 〕 に当たる。 「マルクス・トゥーリオ」という名は、紀元前のイタリアの政治家・文筆家・哲学者のマルクス・トゥッリウス・キケロ(通称「キケロ」)に由来して、父親の知人の医師によって名付けられた〔矢内 2009、24頁〕。「リュージ」という名は、父親に由来して名付けられたものだが〔矢内 2009、23頁〕、日本での戸籍名では「ユウジ」と表記されている〔。父親は小学校教師とレストラン経営の傍らで、40歳を過ぎてから弁護士資格を取得した努力の人である〔闘莉王 2010.3、152頁〕。生まれて初めて喋った言葉は、「ママイ(お母さん)」「パパイ(お父さん)」「ボーラ(ボール)」だったという〔矢内 2009、27頁〕。その言葉どおり、物心ついたときには既にボールを蹴っていた〔。 1989年1月、オレステス小学校入学〔矢内 2009、28頁〕。当時の担任教師によれば、「優しい子で、困っている友達を見ると放っておけない性格だった」「勉強が得意で、努力家で、学業成績が良かった。水泳も得意で、学校の水泳大会ではいつも優勝していた。」という〔矢内 2009、29-30頁〕。ただし本人は、「数学は得意だったけど、国語は苦手だった。友達と喧嘩することも多かった」と回想した〔矢内 2009、30頁〕。サッカーを本格的に始めたのは9歳の時で、ボランティア活動で子ども達にサッカーを教えていたコーチが近所に引っ越してきたことがきっかけであった〔矢内 2009、31頁〕。そのサッカー教室へ通い上達していった〔矢内 2009、32頁〕。しだいに少年チームだけでは物足りずに父親の試合について行き、大人に混じってサッカーをすることもあった〔。 中学時代は「自分の人生に責任を持つ人間に育ってほしい」という父親の厳しい教育方針のもと〔矢内 2009、34頁〕、昼間は会計事務所で働き、夜間はオレステス中学校夜間部へ通う生活を送った〔。中学校では体育教師の熱心な勧誘でバレーボール部に所属してエースアタッカーとして活躍し、地区大会で優勝するほどであった〔矢内 2009、35頁〕。また数学教師の推薦でオレステス中学校代表としてブラジル数学オリンピックに出場し、全国大会にまで進んだ経歴も持つ〔矢内 2009、36-38頁〕。中学時代に本格的にサッカーをやっていなかったプロ選手はほとんど存在せず〔矢内 2009、36頁〕、この時期にサッカーから離れていたトゥーリオは非常に珍しい存在である〔。 1997年、人に勧められて受けたミラソウFC (:pt:Mirassol Futebol Clube)のセレクションに合格し、その頃からプロサッカー選手を目指すようになった〔矢内 2009、50頁〕。その1ヶ月後の1998年1月、留学生を探しにミラソウFCを視察していた千葉県の渋谷幕張高校サッカー部監督の宗像マルコス望に才能を見出され、日本の高校への留学を誘われた〔矢内 2009、50-55頁〕。1998年3月、カバン1つだけを持参して16歳で来日した〔矢内 2009、58頁〕。最も辛かったのは日本語ができなかったことで、日本に来て最初の1年間が人生で最も辛かったという〔矢内 2009、66-68頁〕。しかし日本語も英語も必死に勉強したという〔。サッカーに関しては、本来は攻撃的ポジションの経験しかなかったが〔矢内 2009、63頁〕、宗像監督の意向でセンターバックにコンバートされた〔。ブラジルではトップ下か攻撃的MFを担当しており〔闘莉王 2010.3、108頁〕、それまでヘディングの練習はしていなかった為、毎日ヘディングの練習を繰り返した〔。ただし幼少期の乗馬の経験が、空中戦におけるバランス感覚やポジショニングに大きく役立ち、また中学時代のバレーボールの経験が、跳躍力とタイミング判断に大きく役立つことになった、と本人は回想した〔闘莉王 2010.3、104-113頁〕。個人としては千葉県選抜チームのメンバーに選出されて国体に出場し、全国優勝を果たした〔矢内 2009、69頁〕。渋谷幕張高校サッカー部の一員としては、本人のフリーキックからのゴールが決勝点となり、サッカー部を初の全国大会出場へ導くという実績を残した〔矢内 2009、72頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中マルクス闘莉王」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Marcus Tulio Tanaka 」があります。 スポンサード リンク
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