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田 健治郎(でん けんじろう、安政2年2月8日(1855年3月25日) - 昭和5年(1930年)11月16日)は、日本の官僚、政治家、華族(男爵)。丹波国氷上郡(現在の兵庫県丹波市)出身。幼名は梅之助、号は譲山。男爵。衆議院議員・貴族院議員・逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。田艇吉(衆議院議員)は兄。田英夫(参議院議員)は孫。また先祖に元禄時代の女流俳人田捨女がいる。 == 経歴 == 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)に田文平の子とし生まれる。健治郎の家は代々大庄屋を務めた豪農であった。幼時には強健・腕白であり、虚弱であった兄・艇吉がケンカに負けると、兄に代わってケンカに出向くといった逸話が残っている。 明治7年(1874年)に上京し、同郷の先輩の紹介で熊谷県の下級吏員に採用、翌年に愛知県に移り、次いで高知県・神奈川県・埼玉県部長など地方の警察畑を歩み、立身していった。明治23年(1890年)、時の逓信大臣後藤象二郎に見いだされ中央官界への道をつかみ、警保局官吏から1890年に逓信省に入省し、局長・逓信次官・鉄道会議幹事(後に同議員に転じる)を務める。一時期、官を辞めて関西鉄道社長を務めた。1900年5月9日、錦鶏間祗候に任じられる〔『官報』第5054号、明治33年5月11日。〕。明治34年(1901年)、兵庫県第3区選出・植木致一の辞職に伴う補欠選挙に、伊藤博文の勧めで立憲政友会から出馬し衆議院議員に当選〔『官報』第5451号、明治34年9月2日。〕。次の第7回総選挙でも当選し、衆議を二期務める。 1901年、政友会が第1次桂内閣を巡って二分された際に幹部を批判したとして立憲政友会を除名された。その後、伊藤の執り成しで復党したものの、伊藤の政友会総裁辞任後に離党、衆議院議員の辞任後に3度逓信省に復帰して再度次官を務めた。明治39年(1906年)の退官後の1月7日、貴族院勅撰議員となり〔『官報』第6754号、明治39年1月8日。〕茶話会に所属、翌年には男爵に叙せられると伊藤とも距離を置き始める。その後、平田東助・清浦奎吾・大浦兼武らと共に元老・山縣有朋系の官僚政治家として活動する。 シーメンス事件後の第1次山本内閣倒閣の中心人物の1人となって古巣の政友会と激しく対立した。だが、次の大隈内閣以後、政友会との関係を改善して原敬と山県の仲裁役となる。同内閣崩壊後には寺内内閣の発足に尽力して逓信大臣に就任する。大正8年(1919年)、文官として初めて台湾総督となったが、これは総督の軍人専任を改めようとする原敬とそれに反対する山縣有朋との一種の妥協とも言われている。総督時代には台湾における法制整備と文民統治の定着に尽力した。内地延長主義を主張し、「内台一体」という方針の下に、内台の差別をなくす融合政策を行った。ところが、原敬が暗殺されると、元老西園寺公望(元政友会総裁)は急遽総裁に立てた高橋是清に不安を覚え、田に政友会に復帰して貰って横田千之助を総裁になるまでの中継ぎの総裁に就任することを要請したが、山県との関係もあり辞退したと言われている(結果的には横田の急死もあって高橋が長期にわたって政友会総裁を務めることになった)。 大正11年(1922年)の関東大震災直後に成立した第2次山本内閣に司法大臣兼農商務大臣として入閣(後に農商務大臣専任)する。後藤新平内務大臣とともに震災復興計画を策定するも政友会の反対で成立出来ず、虎の門事件で内閣も倒れた。1925年以後は枢密顧問官を務める。 昭和5年(1930年)、東京市玉川村(現在の東京都世田谷区)上野毛の自宅(万象閣)で倒れ、脳出血から肺炎を併発して死去。墓所は多磨霊園にある。 1906年から1930年までの政治活動を綴った『田健治郎日記』は近代政治史上貴重な史料とされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田健治郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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