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田口修治 : ウィキペディア日本語版
田口修治[たぐち しゅうじ]

田口 修治(たぐち しゅうじ、1905年 - 1956年3月)は、日本撮影技師映画監督映画プロデューサーである〔田中, p.138.〕〔年鑑, p.499.〕〔年鑑, p.15.〕〔''シュウ・タグチ''東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年5月18日閲覧。〕〔''田口修治、シュウ・タグチ''、日本映画情報システム、文化庁、2014年5月18日閲覧。〕〔''シュウ・タグチ''日本映画データベース、2014年5月18日閲覧。〕〔''シュウ・タグチ''KINENOTE, 2014年5月18日閲覧。〕〔''シュウ・タグチ''allcinema, 2014年5月18日閲覧。〕〔''シュウ・タグチ''、資料室、東宝、2014年5月18日閲覧。〕〔第2回鎌倉シネサロン 鎌倉市川喜多映画記念館、2013年4月20日付、2014年5月18日閲覧。〕。第二次世界大戦後はシュウ・タグチを名のり、1948年(昭和23年)10月にはシュウ・タグチ・プロダクション株式会社を設立、ドキュメンタリー映画を中心に自主製作を行なう〔〔。
==人物・来歴==
兄の田口桜村が1920年(大正9年)に松竹蒲田撮影所の初代所長に就任し、ヘンリー小谷を招聘、日本のニュースリール製作の草分けである小谷に師事する〔。1924年(大正13年)、創立時の日本電報通信社写真課活動写真係(のちの電通映画社、現在の電通テックの前身の一社)で「電通ニュース」の撮影に携わる〔。その後、パテ・アメリカパラマウント映画メトロトーン等のニュース撮影技師となる〔。メトロニュース極東代表、同盟ニュース顧問、日本ニュース映画社外国局次長、ニューヨーク支社長、同マニラ支社長などを歴任した〔。1942年(昭和17年)にはこの時代の経験を反映した書籍『戦時下アメリカに呼吸する』を上梓する〔戦時下アメリカに呼吸する 国立情報学研究所、2014年5月18日閲覧。〕。
戦後は、マニラから帰国し、シュウ・タグチを名のり、1947年(昭和22年)には『立ち上がれるか日本』を発表する。USIS(米国情報局)から受注し、戦前からの封建的な網元(親分)から漁民を解放した漁業法改正のPR映画『漁る人々』''Men who Fish'' (1948年)や、戦前からの封建的な「地主・小作農家」の関係から農民を解放した農地改革のPR映画 ''This Land is Mine'' (1948年)を発表、それぞれ世界USIS映画コンクール第一位と第二位を受賞した。1948年(昭和23年)10月には、赤峰峻河合武とともに東京都港区芝金杉町4丁目15番地(現在の同区)にシュウ・タグチ・プロダクション株式会社を設立、ドキュメンタリー映画を中心に自主製作を行なう〔。1950年(昭和25年)に公開された『台風の眼』は、世界ではじめて台風の眼の中に入って撮影した歴史的記録映画で、第5空軍の協力を得るまでに8ヶ月を要したという。
1956年(昭和31年)3月、死去した〔。満51歳没。同年4月30日に発行された『映画技術』誌上に浅井達三が『田口修治先生の追憶』を発表した。
長男はドキュメンタリー映画作家の田口寧、実弟はヴァイオリニスト黒柳守綱(旧姓田口)、姪はタレント黒柳徹子〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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