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田岡嶺雲 : ウィキペディア日本語版
田岡嶺雲[たおか れいうん]
田岡 嶺雲(たおか れいうん、明治3年10月28日1870年11月21日) - 大正元年(1912年9月7日)は、近代日本文芸評論思想家。本名は佐代治
== 略歴 ==
土佐国土佐郡石立村(現・高知県高知市内)の出身。小学校時代、自由民権運動の結社「嶽洋社」に入り、最年少の弁士となる。明治23年(1890年)、上京して水産伝習所(現・東京海洋大学水産学部)に入学、内村鑑三に魚類解剖の実習を受ける。翌年、東京帝国大学文科大学漢文科選科(現・東京大学文学部)に入学し、在学中から評論活動を始める。明治27年(1894年)7月、同科を卒業。翌年2月、投書雑誌『青年文』の主筆となり、樋口一葉泉鏡花の才能をいち早く評価し、近代社会の道徳的頽廃を告発するとともに、貧しい人々の悲惨な生涯を暖かく描き出すことを求め、気鋭の文芸評論家として頭角を現す。
明治29年(1896年)5月、文筆だけでは生活ができず、岡山県津山尋常中学校(現・津山高等学校)の教師となるが、土地の芸妓との恋愛がもつれて帰京し、『万朝報』の論説記者となる。その芸妓との間に生まれたのが、のちの国際法学者・田岡良一である。その紙上、日中韓の同盟による欧米帝国主義からのアジア・アフリカ・中南米の解放を主張するとともに、維新に次ぐ反藩閥・反富閥の「第二の革命」をめざす市民運動を唱えるが、挫折。水戸に赴き、新聞『いはらき』の主筆となるが、これも辞め、中国は上海に渡り、東文学社(日本語学校)の教師となる。ここで康有為派の左派、唐才常汪康年文廷式らと交わる。
上海での一年は嶺雲に思想上の変革(天皇信仰からの解放)をもたらすとともに、その生徒だった王国維の眼を近代哲学(カントショーペンハウアー)に開かせた。王は、その後、ショーペンハウアー哲学に学んで「紅楼夢評論」を書き、中国近代文学の先駆となった。
明治33年(1900年)6月、『九州日報』の特派員として北清事変に従軍するが、自由な取材が許されず、帰国後、戦争の悲惨や日本軍の非合理的な体質を告発する文章を発表し、のち、それらを「戦袍余塵(せんぽうよじん)」としてまとめ、宮崎来城との合著『侠文章』に収めた。同年9月、岡山発行の『中国民報』の主筆となるが、翌年4月、教科書検定をめぐっての県知事らの汚職を摘発。かえって官吏侮辱罪に問われ、一審は無罪になったが、控訴審で逆転有罪、3ヵ月間、岡山刑務所に服役した。
日露戦争に対しては民族解放戦争の性格があるとして開戦論の立場に立つが、他方では幸徳秋水堺利彦らの『週刊平民新聞』に戦争批判のエッセーを連載した。
明治37年(1904年)秋、中国民報社を辞め、上京。翌年秋、雑誌『天鼓』を創刊、文芸評論家としては夏目漱石木下尚江の才能に注目、与謝野晶子の「君死に給ふこと勿かれ」を批判的に擁護した。
この間に出版された評論集『壺中観』は、人種的・社会的・性的格差のない、国家を超えた世界共同体を構想したことによって発売禁止となった。以後、嶺雲の主要な評論集は悉く発売禁止となる。
明治38年(1905年)9月、『天鼓』の経営が思わしくなく、みたび中国に渡り、蘇州の江蘇師範学堂の教習となるが、脊髄病に犯され、翌々年の春に帰国。京阪の地を転々として病を養う。しかし10月、上京して白河鯉洋らと新聞『東亜新報』を創めるが、翌明治41年(1908年)1月、脊髄病が進行して歩行の自由を失う。以後、寒暑を日光や湯河原や西伊豆に避けながら、著作活動を続けることになる。
明治42年(1909年)2月、世界主義の立場に立つ雑誌『黒白』を創刊し、「女子解放論」を執筆しはじめる。雑誌発表のものは抄で、25万字以上に達する原稿が完成したようだが、現在に至っても発見されていない。この年の10月には、自由民権左派による武装反乱を記録した『明治叛臣伝』を出した。同書の記録部分は嶺雲が歩行の自由を失っていたので、駆け出し時代の田中貢太郎が担当した。
明治43年(1910年)6月1日、湯河原で同宿していた幸徳秋水が大逆事件容疑で拘引されるのに立ち会っている。。
翌年6月から、『中央公論』に、波乱に富んだ生涯を回顧した自叙伝『数奇伝(さっきでん)』を書き始める。これが嶺雲の最後の著述となった。
嶺雲には、もう一つ、中国文学研究者としての面がある。中国古典の近代的な再生をめざした叢書「支那文学大綱」(大日本図書株式会社)のために「莊子」(1897)・『屈原』(1899)・『蘇東坡』(1897)・『高青邱』(1899)・『汪漁洋』(1900)を書いている。また中国古典の日本語訳の最初の試みである「和訳漢文叢書」(玄黄社)の出版を企て、自身も『和訳老子・和訳莊子』(1910)・『和訳荀子』(同)・『和訳墨子・和訳列子』(1911)を担当している。
この間、表現の自由だけではなく、歩行の自由も奪われた嶺雲に対して友人の手によって慰問文集が企てられ、漱石や鏡花をはじめ応ずる者多く、3冊にふくれ上がった。『叢雲』・『寄る波』・『千波万波』(以上1909)がそれだが、大正元年(1912年)9月7日、嶺雲が療養先の日光で没すると、『読売新聞』は同年10月6日号に2頁に及ぶ追悼記事を載せている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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