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田沢疏水[たざわそすい]
田沢疏水(たざわそすい)は、秋田県南東部に広がる仙北平野を南北に流れる農業用水路である。2006年(平成18年)2月3日に「疏水百選」に選ばれている。受益面積は約3,890haである〔東北農政局「田沢疏水」 〕。
== 立地と地域概況 == 横手盆地の北半を占める通称「仙北平野」は、北流する雄物川およびその支流で南西に向かって流れる玉川の流域に相当し、これらに注ぐ斉藤川・斉内川・丸子川・出川などの小河川はさらに多くの支流を集めて東の奥羽山脈から西に向かって流れている〔河川表(雄物川水系) (秋田県建設部河川砂防課)〕。これら小河川の堆積作用によって、山脈の西麓(盆地東縁部)には六郷扇状地や千屋扇状地をはじめとする多数の複合扇状地が発達しており、その扇端部には長野・豊川・清水・横沢三本扇・横堀・高梨・千屋本堂城廻・畑屋・六郷・飯詰など、伏流水の湧き出る湧水地帯が南北に連なり、扇端部およびその西方の後背湿地は古くから美田の広がる「米どころ」として知られてきた〔元禄年間の「出羽国七郡絵図」(通称「元禄7郡絵図」)では、秋田郡6万4,320石、山本郡2万0,347石、河辺郡1万6,520石、由利郡5万4,745石、雄勝郡4万0,891石、平鹿郡5万1,195石に対し、仙北郡は8万2,030石であった。『角川日本地名大辞典』(1980)〕。とくに六郷湧水群は、古来「百清水」と称され、昭和60年(1985年)には「名水百選」にも選定された湧水の多いところで、伝統的に日本酒醸造業や清涼飲料水の製造がさかんな地である。一方、谷口にあたる扇状地扇頂部ではこれら小河川の水を灌漑用水として使用してきた。 しかし、扇頂部と扇端部の中間に広がる扇央部の伏流水地帯(神代村真崎野、豊岡村の柏木野・木内林、長信田村の田屋野・小曽野・千本野、横沢村の駒場野、千屋村の若林野、金沢町から六郷町六郷東根にかけての明天地野の各地域)は、地表面では水無川となっていて水が得にくいうえに、土壌は砂礫層が卓越して保水力に乏しいため稲作には向かず、林地、牧草地、畑地、道路、また明治以降は桑畑などとして用いられてきた〔疏水の歩みを語る「田沢疏水と開拓II」 (秋田県農地整備課)〕。このうち、林地は木炭の一大産地であり、かつては燃料資源において重要な位置を占めており、農家の冬期間の副業として炭焼きがさかんにおこなわれていた〔戦前期の秋田県南各地では木炭の品質改良が進められ、とくに山間部では「秋田備長炭」は長時間火力の持続する高品質の木炭として知られた。技術改良にあたっては昭和2年(1927年)に秋田県技師に着任した福島県出身の吉田頼秋の功績が大きかった。秋田便長炭の炭窯づくり 〕。野ツツジやアカマツ、スギの広がる原生林も広大な面積を占めた〔『大田町史』pp.810-821〕。牧草地は、主として馬産のために活用され、農耕馬・軍馬を供給した。仙北郡中西部の神宮寺町笹倉には国立の種馬所があり、南端の飯詰村山本には後三年競馬場があった〔国立の神宮寺種馬所(現秋田県畜産試験場)の誘致に尽力したのが、大曲町出身の政治家榊田清兵衛であった。榊田は、盛曲線(現田沢湖線)敷設にも努力し、代議士としては関東大震災後の復興や日本最初の地下鉄(上野-浅草間)の開通にも力があった。〕。養蚕もまた、戦前の地域経済を支えた。初代六郷町長であった畠山久左衛門は六郷東根の出身で、当地の養蚕業の発展に尽力した人物として知られている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田沢疏水」の詳細全文を読む
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