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田畑 政治(たばた まさじ、1898年12月1日 - 1984年8月25日)は、日本の新聞記者、水泳指導者。静岡県出身〔田畑政治 - コトバンク〕。 長きに渡り日本水泳連盟会長を務めた他、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンの一人として有名。 == 略歴 == 東京帝国大学を卒業後、1924年(大正13年)に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社。その後政治経済部長などを務め、1949年(昭和24年)に常務に就任した。 一方で水泳指導者としても活動し、1932年のロサンゼルスオリンピックなどの大きな大会で日本代表の監督を務めた。 1939年には、日本水泳連盟(当時の名称は大日本水上競技連盟)会長・末弘厳太郎が大日本体育会(戦後の日本体育協会)理事長に就任したことから、会長を支えるべく新たに設けられた理事長に就任〔立教大学体育会水泳部の歴史-3 〕。戦後の1948年には日本水泳連盟の会長に就任、同年のロンドンオリンピック参加を断られた当時の日本代表(古橋廣之進・橋爪四郎ら)の実力を見せつけるべく、日本選手権の決勝をロンドン五輪と同日開催とする〔古橋広之進 - 国際留学生協会〕などの策士ぶりを発揮、翌1949年の国際水泳連盟(FINA)復帰につなげるなど、大胆な組織運営を行った。 その後も1952年のヘルシンキオリンピック、1956年のメルボルンオリンピックと二大会連続で日本選手団の団長を務めている。 戦後間もない時期から東京へのオリンピック招致を訴えており、五輪招致活動においては中心人物の一人として、以前から親交のあったフレッド・イサム・ワダなどの人物を招致委員に引き込むなど活躍。 1959年(昭和34年)に1964年の東京開催が決定すると、その組織委員会の事務総長に就任し、開催に向けて活動した。正式種目に女子バレーボールを加えるロビー活動の、陣頭指揮にも立ったという〔【オリンピズム】五輪旗と組織委員会(4)スポーツ界自立に人生捧ぐ - 産経ニュース 2013.10.29〕。 しかし、1962年の第4回アジア競技大会でホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否、それに対して国際オリンピック委員会(IOC)がこの大会を正規な競技大会と認めないという姿勢を打ち出したことで、日本選手を出場させるべきかという問題に巻き込まれる〔紛糾したアジア競技大会とGANEFO。そしてインドネシアと北朝鮮の引き揚げ - 日本オリンピック委員会(コラム「東京オリンピック開催へ」 Vol.3)〕。最終的に日本選手団は(競技自体が中止された)重量挙げを除いて出場したものの、この問題の責任を取る形で田畑はJOC会長で組織委員会会長の津島寿一とともに辞任することとなった〔。 1973年には日本オリンピック委員会(JOC)会長に就任した( - 1977年)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田畑政治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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