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田辺国男 : ウィキペディア日本語版
田邊圀男

田邊 圀男田辺 国男、たなべ くにお、1913年9月24日 - 2005年12月19日)は、日本政治家自由民主党衆議院議員山梨県知事鈴木改造内閣沖縄開発庁長官、総理府総務長官を歴任したほか、田辺酒造店主。
== 来歴・人物 ==
山梨県塩山市下於曽(現在の甲州市)に生まれる。造酒業を営む田辺家の次男。田邊宗英の甥にあたる。父の田邊七六は戦前に実業界から衆議院議員となった人物で、立憲政友会に所属し幹事長を務め、戦後も日本進歩党に所属し、自民党山梨県連初代会長を務め山梨県政に影響力を持っていた。
1938年(昭和13年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、1958年(昭和33年)に第28回衆議院議員総選挙において旧山梨全県区から立候補し初当選して以来、通算当選9回(当選同期に安倍晋太郎倉成正斎藤邦吉など)。初当選の際には同選挙区からは金丸信も初当選しており、天野久知事に近い党主流(佐藤→田中派)の金丸のほか、安定した選挙基盤を持つ内田常雄堀内一雄堀内光雄の父)らと鎬を削った。
戦後の山梨県政では既成勢力の支持した官僚知事の吉江勝保により戦災復興が行われ、1951年(昭和26年)の第二回知事選で保革連合による支持を受けた民主党代議士天野久が初の県人知事として当選した。天野県政は分裂していた保守派を統合して安定した政治基盤を築き、野呂川総合開発新笹子トンネル、富士北麓開発など開発を重視した総合開発政策が実施され、災害復旧や北富士演習場問題が懸案事項であった。県政後期には農政を巡る対立や、総合開発のため中央の自民党主流佐藤派との関係を深めていたことから党の対立構造が影響し、自民党非主流の川島正次郎派の田辺は佐藤派の議員金丸信と対立し、天野の多選反対を展開した。
1962年(昭和37年)の知事選では前自民党県連会長で県農協政治連盟の星野重次が出馬するが天野は四選を果たし、五選を前にした1967年(昭和42年)の知事選においては国政でも自民党内から知事の多選反対論が噴出しており、田辺も堀内や前知事の吉江勝保らと五選反対論を展開した。同年5月には日本社会党山梨県本部や農政連を中心に県政刷新連が組織され、10月の県議会議員選挙では天野派と反天野派が拮抗する状態となった。同月25日に組織された県政浄化同志会で田辺は副会長に選出され、同志会は自民党の多選反対派が合流して保革連合が成立する。
刷新連の候補者選定では自民党の堀内のほか社会党の小林信一や星野重次らの名前が浮上するが、それぞれ保守派や革新派の支持が集まらず、県政浄化同志会の支持や年齢の点から田辺が候補者に選定される。田辺は北富士演習場の全面返還と平和利用や恩賜林開発における入会権の尊重など県政課題における社会党主導で作られた刷新連の綱領や、副知事の革新派から選出することを条件に立候補を承諾した。
天野は立候補の辞退を固持したため自民党は五選を推進し、田辺は第1次佐藤内閣解散に伴う総選挙と同時に行われた知事選で10万票差で天野を破り、戦後の公選第三代知事に就任した。以来、1979年(昭和54年)まで3期12年務める。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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