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田辺太一[たなべ たいち]
田辺 太一(たなべ たいち(やすかず))は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した武士(幕臣)・外交官である。通称は他に定輔など。号は蓮舟。錦鶏間祗候。 ==略歴==
===外国方出仕=== 天保2年(1831年)、儒学者で幕臣の田辺誨輔(石庵)の次男として生まれる。18歳で昌平坂学問所(昌平黌)に学び、優秀な成績を収めて甲府徽典館教授となる。安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所に第三期生として学ぶ。 安政6年(1859年)、幕府外国方に召し出され、書物方出役となり、外国奉行・水野忠徳の下で横浜開港事務に関わる。当時、アメリカ合衆国やイギリスが小笠原諸島の領有権を主張し始めていたことを受け、中浜万次郎(ジョン万次郎)が領有・捕鯨基地化を提案しており、同島嶼の精密な調査が必要となっていた。そのため文久元年(1861年)、水野忠徳が自ら咸臨丸(艦長は小野友五郎)で同諸島に赴任、測量を行った際も、田辺は外国奉行支配調役並に任ぜられ随行した。この測量が小笠原諸島の日本領有の大きな手がかりとなる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田辺太一」の詳細全文を読む
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