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田部 密(たなべ ひそか、1838年2月16日(天保9年1月22日) - 1910年(明治43年)10月5日)は、幕末彦根藩士、明治期代の地方官僚・実業家・漢学者。 == 生涯 == 1838年2月16日((旧暦)天保9年1月22日)近江犬上郡彦根城下上藪下町の同藩足軽谷口他三郎の次男として誕生し、同じ足軽の田部全次の養子となる。両家とも8石取りと伝えられている。通称は全蔵又は先蔵と称した。藩校弘道館で学び、特に漢学を修めた〔「Regional No7」P19 「青年期の田部密と中尾靖軒--田部密探索(2) 奥本武裕」(奈良県立同和問題関係史料センター 2006年7月)〕。 文久・元治より慶応・明治維新の間、藩の外交掛りに属し、諸藩の志士と交わり、大東義徹・川上吉太郎・外村省吾・西村捨三・西川吉輔・大音竜太郎等と共に活動した。特に1866年(慶応2年)第二次長州征討に際して、岩国藩用人であり漢学者であった塩谷鼎助を介し秘密裏の交渉を取り持った(『吉川経幹周旋記』)。1867年11月((旧暦)慶応3年10月)朝廷から出された諸藩への諮問に際し、北川徳之充と共に密が藩を代表して署名を行った。1868年1月3日((旧暦)慶応3年12月9日12月)王政復古において、藩論を藩内尊攘派下級武士が集まる「至誠組」と共に倒幕に導き、戊辰戦争当時には藩公用人として京都に常駐した〔。 明治維新後大参事として藩政に係わった後、1871年(明治4年)香川県参事に転出したが、1873年(明治6年)官を辞し困窮した旧藩士等による新たな事業立ち上げのため、大東義徹等と共に『集義社(彦根義社)』設立に参画した。この間1874年(明治7年)、閉鎖直前の豪商島田組の総理(番頭)となり、島本仲道等が設立した我が国最初の法律事務所(代言人(現在の弁護士)の組織)である北洲舎への資金支援を行った〔「Regional No6」P27 「明治前半期の地方官僚と部落問題--田部密探索(1) 奥本武裕」(奈良県立同和問題関係史料センター 2007年5月)〕。 1879年(明治12年)、大阪府知事渡邊昇の推薦により2月20日密は大阪府西成郡の郡長に就任した〔「1886年(明治19年)10月9日付け大阪日報」〕〔「Regional No8」P13 「大阪府知事渡辺昇と田部密・中尾靖軒--田部密探索(3) 奥本武裕」(奈良県立同和問題関係史料センター 2007年10月)〕。西成郡長時代、密は1884年(明治17年)西成郡内長町の実情をあげながら経済困窮者への税免除を太政大臣宛訴え、また長町移転に際しては移転先地権者・近隣住民への説得を密自ら行い、無事移転を成し遂げるなど住民をよく理解し行政に携わった。また、高市・葛下・葛上・忍海郡長時代には、町村合併問題が生じたが根気よく業務を遂行した〔。 1890年(明治23年)、高市・葛下・葛上・忍海郡長を退任し、同年4月大阪鉄道株式会社常詰常議員となり、翌年9月同社社長に就任した〔。大阪鉄道は1890年以降順じ路線を伸ばし、現在の関西本線の奈良以西、大阪環状線の旧城東線部分、和歌山線の一部を建設していった。1890年中の開業区間は湊町から奈良と郡長として強い縁を持つ地域であった。 1899年(明治32年)9月大阪鉄道株式会社社長を退任。晩年は漢学研究に勤しみ、1910年(明治43年)10月5日大阪にて死去した。大阪阿倍野墓地に葬られた〔「大阪人物誌 巻3」 p18「田部苔園」の項(石田誠太郎著 1926年)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田部密」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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