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甲佐同盟 : ウィキペディア日本語版
甲佐同盟[こうさどうめい]
甲佐同盟(こうさどうめい)は、戦国時代軍事同盟甲斐国武田氏常陸国佐竹氏の間で成立した同盟。双方の当主は武田勝頼佐竹義重で、相模国後北条氏を対敵として機能した。
「甲佐同盟」の呼称は丸島和洋により提唱されたもので〔丸島「甲佐同盟に関する一考察-武田勝頼期を対象として-」『年報三田中世史研究』7号、2000年〕、「甲」は甲斐武田氏の本国である甲斐国を、「佐」は佐竹氏のの略称を意味する。丸島は同盟締結の際に交渉を務めている佐竹配下の梶原政景が文書〔「武州文書」『千葉県の歴史』資料編中世4 - 29号〕において武田・佐竹を「甲・佐」と呼称していることから命名している〔なお、甲斐武田氏と常陸佐竹氏の関係が「甲佐」と称され武田側が令制国の略称であるのに対し佐竹側が姓の略称で呼称されている背景について、丸島は北関東から東北地方において一国規模の地域権力が存在しなかったため、勢力間の呼称は姓の略称を用いる慣行が一般的であったためとしている。〕。
== 甲斐武田氏と常陸佐竹氏 ==
甲斐武田氏・常陸佐竹氏はともに源義光(新羅三郎義光)を同一先祖と位置づける清和源氏の一族で、義光は後三年の役において兄の源義家を助け、陸奥国南東から常陸国北部において勢力を拡大し、源義業は平安時代に常陸国佐竹郷(茨城県常陸太田市)を本領とし、子孫は戦国期に常陸における地域勢力として台頭した。
義光の子源義業の子孫からは佐竹氏ら常陸源氏の一族が輩出した。佐竹氏は常陸北部に勢力をもつ中小規模の戦国大名で、関東・東北地方においては鎌倉公方古河公方、関東管領扇谷上杉家山内上杉家などの公権力のほか、相模国の後北条氏を除いて広域を支配する統一権力が生まれず、鎌倉公方や両上杉氏の対立や分裂に連動し、佐竹氏ら中小の地域勢力が分立する時代が続いた。こうした中で後北条氏は伊豆から相模、関東へと領国拡大を行い、山内上杉家・関東管領職を継承した越後上杉氏や佐竹氏ら関東諸族との抗争が展開された。
一方、同じく義光の子義清(武田冠者)・清光親子は常陸国武田郷(茨城県ひたちなか市武田)を本領としていたが平安後期に甲斐へ移住し、子孫は甲府盆地各地へ進出し武田氏をはじめとする甲斐源氏の諸族を輩出した。武田氏は甲斐源氏の棟梁として台頭し、衰勢や分裂を経て戦国期には甲斐守護武田氏が甲斐統一を達成し、信虎晴信(信玄)期に戦国大名化する。武田氏は晴信(信玄)から勝頼期にかけて甲斐、信濃、西上野、駿河と一国以上の規模に領国を拡大し、越後上杉氏や相模後北条氏、さらに将軍足利義昭織田信長ら中央権力と外交関係を展開する。
佐竹氏は佐竹義重の頃に領国拡大を行っているが、最終的に武田・佐竹氏間の領国が接することはなく外交関係は限定的であったと考えられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「甲佐同盟」の詳細全文を読む



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