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甲冑(かっちゅう)は、主として刀剣や弓矢を用いた戦闘の際に兵士が身につける日本の伝統的な防具である。 == 概要 == 甲冑の発祥は、唯一、常陸国風土記に記されており、日本刀の起源や剣術等の発祥も東北地方であることから推測して、東日本が発祥とされている。古事記、日本書紀にも記されているが、これに古墳から発掘された遺物、埴輪、ならびに日本の周囲の土俗品から推すと、北方系の札(さね)鎧と、南方系の板鎧が併用されたことがわかる。 弥生時代では「組合式木甲」(前期末から中期中葉)と「刳抜式木甲」(前期末から古墳前期)といった木製甲があり、弥生前期末頃には半島系武器と共に甲冑の出現も確認される〔「第5回 歴博国際シンポジウム 古代東アジアにおける倭と加耶の交流」 国立歴史民俗博物館 2002年。橋本達也(鹿児島大学総合研究博物館)『古墳時代甲冑の系譜 -朝鮮半島との関係-』より。〕。 古代には埴輪や古墳の出土品に挂甲など大陸の影響の強い甲冑が見られるが、平安時代における武士の出現とともに大鎧(おおよろい)という独自の甲冑がみられるようになる。 平安時代は中国との交通が絶え、日本的な趣味が発揮されて、甲冑にも一大変化がもたらされた。 それまでの騎射戦がほぼ完成されたため、大鎧の出現を見た。 挂甲は儀礼的なものとして残り、綿甲はまったく廃れた。 したがって藤原時代から鎌倉時代までを大鎧時代と言うこともできるが、なお大鎧(当時は鎧もしくは着長といった)に対して略的なものとして腹巻があり、これは歩兵の着用する上腹巻(のちにいう胴丸)、鎧下もしくは衣下に着込む最も短小な下腹巻(のちにいう腹当)の2つにわけられる。源平時代に日本の甲冑は最高度に発達し、荘重優美をきわめたが、遺品は多くない。 文永弘安の役ののち、騎射戦が白兵戦にうつろうとしたため、騎射からの要求で発達した大鎧は煩重のきらいがあり、ここにおいて軽快なものがもとめられ、雑兵が着用した胴丸に兜および袖をそえて将士も着するようになり、いっぽうで、腹当が進化した一種の腹巻も見られた。 この腹巻は足利時代に最もおこなわれた。 ようするに、足利時代は胴丸腹巻併用時代と言うことができるが、槍の流行、鉄砲の伝来など足利時代末期の軍事上の変革にともなって甲冑は三たび変化を余儀なくされた。 こうして戦国時代には当世具足が一世を風靡した。 しかし元和偃武、世は太平を謳歌し、このために実用的な当世具足は虚飾をくわえられるようになり、また学問的発達が過去の形式を復活させもしたが、多くは形式に堕した。 甲冑の堕落時代であるが、文化文政以降、復活もやや成功を見て、形式もととのい、外観も鎌倉時代のそれにちかづいた。 幕末には革製の甲冑もつくられた。 日本の甲冑はその後の武器の変遷や戦闘形式の変化により常に改良が加えられながらも一定の特徴を有していたが明治維新による武士階級の消滅や軍備の近代化にともない実用に供されることはなくなった。 現代では古美術品、工芸品的、歴史資料的性格をもっている。日本の甲冑は、世界の防具と比較しても彩りが豊かで美しいが、中世、近世において武士が常に権力の中枢にあったことや、特に戦乱の無い江戸時代において一部の上級武士が象徴的に珍重したためであって、その時代の鍛鉄・皮革・漆工芸・金工・組紐など様々な分野の技術を駆使して製作されているためである。その取り扱いにあたっては、素材が多種多様にわたる保管や、兜・胴を中心に各部分をつないで組み立てる構造上の理解とが必須である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甲冑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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