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甲午農民戦争 : ウィキペディア日本語版
甲午農民戦争[こうごのうみんせんそう]

甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は1894年甲午)に朝鮮で起きた農民の内乱である。関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱とも呼ばれる。なお、大韓民国では東学農民運動東学農民革命と呼ばれている。
この戦争の処理を巡って、大日本帝国清国の対立が激化し、日清戦争に発展する。
== 第一次蜂起 ==
1860年代から朝鮮は変革の時代を迎えていた。これに1880年代以降、国内の動乱期を乗り越えた日本アメリカ合衆国西欧列強が加わり、次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。
閔氏政権の重税政策、両班たちの間での賄賂と不正収奪の横行、そして1876年日朝修好条規(江華島条約)をはじめとした閔氏政権の開国政策により外国資本が進出してくる等、当時の朝鮮の民衆の生活は苦しい状況であった。朝鮮政府の暴政に対し次のような詩が朝鮮国内に広く伝昌されていた。
朝鮮の改革を巡っては、壬午事変甲申政変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にしていた閔氏は、自らの手で改革を行うことができずにいた〔朴垠鳳『わかりやすい朝鮮社会の歴史』〕。このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そのような中、1894年全羅道古阜郡で、群守のが水税の横領を起こし、その横領に対して全羅道觀察使に哀願を行った農民が逆に逮捕される事件が起きた〔支那近代百年史 上巻 佐野袈裟美 1939年〕。この事件により、同年春に、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった崔時亨が武力蜂起し、甲午農民戦争に発展した。反乱軍は全琫準という知将を得て5月には全州一帯を支配下に置いた。
全羅道古阜郡の民乱も当初は他の民乱と変わるところはなく、自分達の生活を守ろうとするものでしかなかった。しかし、この民乱の指導者に成長した全琫準を含め農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を通じて民乱が全国的な内乱に発展してゆく。
全琫準は下層の役人であった。しかし、17世紀から普及し始めた平民教育で、全琫準のような非両班知識人が形成されていた。この全琫準が発した呼びかけ文が東学信者の手で全道に撒かれ、呼びかけに応じた農民で、数万の軍勢が形成された。彼らは全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領するまでに至った。
これに驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請。天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告し、日本は公使館警護と在留邦人保護の名目に派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。この状況に慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成し締結したといわれる(但し和約を結んだとする一次資料は発見されていない)。この和約で従来の地方政府が復活したが、同時に農民側のお目付け役「執綱所」が設けられ、全羅道に農民権力による自治が確立した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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