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甲州枡(こうしゅうます)は、江戸時代に甲斐国で用いられた枡。 『甲斐国志』(以下『国志』)国法之部に拠れば、甲斐四郡のうち都留郡を除く山梨郡、八代郡、巨摩郡の国中三郡で通用していた独自の制度。大小切税法、甲州金とともに甲州三法と呼ばれ、戦国期の武田氏時代の遺制であるとする伝承を持つ。通称は国枡で、別称に大桝、信玄枡とも呼称される。 甲州枡は武田氏時代の由緒を持つ職人が作成し、村方では穀物を計量する日用器具であったほか農耕儀礼にも用いられるなど聖性を帯びた存在であったが、酒や油の計量には京枡も用いられた。 ==甲州枡の起源と形態== 甲州枡の起源は不詳であるが、戦国期には武田晴信(信玄)・勝頼期に拡大した武田領国において秤量器具など度量衡の統一が行われていたことが文書からも確認される。枡制に関しても全国的に通用していた京枡に対し天文20年(1551年)7月11日付板垣信憲・甘利昌忠連署判物など武田氏時代の公定枡が存在していた可能性を示す文書が存在することからも、武田氏時代の創始であるとする説が有力視されている。 江戸時代には、『国志』国法之部では起源を不詳としながらも、古代の升制との関わりを考察している。また、江戸期に甲府城下三ノ堀内で枡職を営む枡屋伝之丞の申し立てによれば、信玄期に枡屋の祖先である細工師の小倉惣次郎が細工御用を仰せ付かり、武田氏滅亡後に甲斐を領有した徳川氏からも枡職を公認されたという。 小倉惣次郎は天正4年(1576年)に勝頼から普請役免許を受けている御用商人で、武田氏時代に公定枡の作成に携わっていたかは未確定であるが、惣次郎の子孫は新たに造成された甲府城下の工町に在住し、江戸期には枡屋を称して枡職を営んでいる。一方、民衆の間では甲州枡存続運動における三郡百姓の願書などで、甲州枡には国母地蔵や稲作伝来と関係させた神話的起源として位置づけられていた。 枡屋で製作された国枡は同じく三ノ堀鍛冶町の鍛冶職である斎木氏により製作された鉄具が装着され、内側四面と底部には枡屋の焼印が、外側には斎木氏の焼印が押された。斎木氏は枡屋と同じく先祖が陣具御用を務めたという御用職人。国枡は枡屋の主力製品で鉄具無しは半額で販売し、売上は斎木氏と折半していたという。内甲州枡の1升は京枡の3升に当たる。容積は方7寸5分、深さ3寸5分であった。鉄判(かなばん)とも三升枡ともいった。ただし甲斐国東部の郡内地方では小山田氏による制定が伝えられる京枡2升5分を1升とする郡内枡が通用していた(「経済録」、『国志』)ほか、二宮美和神社では独自の宮枡が使用されていた。 上記の甲州枡の4分の1の枡を俗にセンジとも、一配、端午(はたご。一杯入ハタゴ枡)、四ツ入ともいった。すなわち京枡7合5勺入、方4寸4分8厘、深さ2寸4分5厘である。これは1日1人の賄料であった。さらにセンジの2分の1をナカラセンジといった。すなわち甲州枡の8分の1に当たる。京枡3合7勺5撮入、方3寸6分、深さ1寸9分である。またさらにこの2分の1を小ナカラセンジといった。すなわち甲州枡1升の16分の1であり、京枡1合8勺7撮5入、方2寸6分5厘、深さ1寸7分5厘余である。以上の4種の枡の容量に関する記述は「本朝度量権衡考」により、ただし『国志』によるとその寸法はまた相違する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甲州枡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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