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甲斐親英[かいちかひで] 甲斐 親英(かいちかひで、天文9年(1540年)? - 天正15年8月16日(1587年9月18日)〔『北肥戦誌』の記述。〕)は、安土桃山時代の武将。阿蘇氏の家臣。甲斐親直(宗運)の嫡男。出家し宗立と号す。官位は相模守。名は親秀とも書く。 == 生涯 == 肥後国の大名・阿蘇氏家臣である甲斐親直(宗運)の嫡男として誕生。 主家の外交方針に逆らって日向の伊東義祐に接近した親英の弟ら3人を殺害した父・宗運を排除しようとするが失敗。家臣のとりなしで助命された(この件が一因となって親英の妻は宗運殺害を決意したという)。父の死後、筆頭家老となる。ところが、阿蘇氏の本拠地・矢部に篭り守勢に徹するべしとの宗運の遺言を守らず、天正13年(1585年)に島津氏の花の山城を攻撃し反撃を招いた。これにより、甲佐城や堅志田城を落とされ、居城の御船城を放棄。隈庄城を開城して降伏するが和平交渉中に捕らえられ八代へ連行される。2歳の当主・阿蘇惟光は島津氏に降伏したのちに母親に連れられ逃走し、阿蘇氏は滅亡した。 ほどなく九州は豊臣秀吉によって平定され、親英は旧領の御船を回復した。しかし肥後の領主として派遣された佐々成政の施策に肥後の国人衆は反発し、天正15年(1587年)に反乱を起こす(肥後国人一揆)。親英はこれに参加し菊池武国らと隈本城を攻撃、落城寸前まで攻め込むが撃退される。結局反乱は鎮圧され、親英は逃れて健軍神社にいたところを成政家臣の軍勢に見付かり、雑兵の手に掛かるよりはと六ヶ所村(嘉島町上六嘉)の地蔵堂へ入り自害して果てた〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甲斐親英」の詳細全文を読む
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