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菊姫(きくひめ、永禄元年(1558年) - 慶長9年2月16日(1604年3月16日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。武田信玄の五女〔信玄の六女説もある。また、生年は永禄6年(1563年)説もある。〕。母は油川夫人。上杉景勝の正室。別名に阿菊御料人、甲斐御前。院号は大儀院。実子なし。 == 生涯 == 永禄元年(1558年)、武田信玄の五女として生まれる。母は武田一族・油川氏の出自である油川夫人。同母の兄弟姉妹に仁科盛信、葛山信貞、松姫〔信玄の三女真理姫の母を油川夫人とする説もある。この説が正しければ真理姫とも同母姉妹ということになる。〕。 天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで兄の武田勝頼が織田信長に敗れて以降、勝頼は外交関係の再建に着手する。天正6年(1578年)、越後国で上杉謙信が死去すると家督を巡り上杉景虎と上杉景勝の間で御館の乱が発生し、勝頼は後北条氏の要請で景虎支援のため越後へ出兵する。勝頼は景勝の和睦要請に応じて、景虎と景勝の和睦を調停して越後から撤兵するが、勝頼撤兵中に景虎・景勝間の和睦は破綻し、景勝が乱を制する。 これにより後北条氏は武田氏との甲相同盟を解消し、武田氏と後北条氏は敵対関係に入る。勝頼は上杉氏との同盟を強化し、甲越同盟の締結が行なわれた天正7年(1579年)に、菊姫は両家の同盟の証として上杉景勝に嫁いだ。御館の乱の最中のことであった。『甲陽軍鑑』によれば、景勝と婚約が成立する以前に長島一向宗の願証寺の僧と婚約していたとされる。 嫁いだ後は上杉家中から甲州夫人もしくは甲斐御寮人と呼ばれ、質素倹約を奨励した才色兼備の賢夫人として敬愛され、第2代藩主定勝(景勝の庶長子)を始めとする後世の歴代藩主たちも謙信時代は争っていた武田家を丁重に扱ったといわれる〔武田氏滅亡時に菊姫の縁を頼って上杉家に逃れてきた信玄の七男(六男説もある)で菊姫の異母弟・武田信清とその子孫は、上杉藩主親族の高家衆筆頭として優遇され、幕末まで続いている。また、真理姫の孫にあたるという上松頼母義次も、母が信玄の外孫であるとして母ともども上杉家に召抱えられている(『上杉家御年譜』より)。〕。 天正17年(1589年)9月、豊臣秀吉は小田原征伐に際し、1万石以上の知行を持つ諸大名たちの妻女を3年間在京させることを命令した。菊姫も同年12月、夫の景勝と共に上洛し〔『上越市史 通史編2 中世』489頁〕、以後、京都伏見の上杉邸で死去するまで人質としての生涯を送った。上杉家は慶長3年(1598年)に越後国から陸奥会津120万石へ転封となったが、菊姫は会津や関ヶ原の戦いでの敗北によって上杉家が移封された米沢に入ることはなかった。在京後は、諸大名、公家衆の妻女たちと音信や贈答を通して交流をはかっていたことが窺え〔『上越市史 通史編2 中世』500頁〕、天正18年(1590年)6月には、当時の准三宮勧修寺晴子や勧修寺晴豊夫妻に三種三荷を進上している(『晴豊記』天正18年6月21日条)。また『妙心寺史』によれば、兄勝頼を手厚く弔った妙心寺の南化玄興に深く帰依していたという。後に菊姫死去の際には、南化の法弟海山元珠が導師を勤めている。文禄4年(1595年)9月、景勝が伏見に屋敷を賜ると伏見邸に移った。伏見邸へは、直江兼続正室のお船の方もともに移ったという〔「西村由緒記」は菊姫は文禄4年(1595年)、兼続正室のお船の方とともに越後から伏見邸に入ったとする(『米沢市史 第二巻 近世編1』190頁)。西村家は京都出身といわれる米沢藩の御用商人。西村家の伝承には、お船の方が関ヶ原の戦いの際に米沢に逃げ帰ったことや、景勝側室の四辻氏は四辻家の家臣の娘とするものもあるが、『米沢市史』は「西村由緒記」は全面的に信用ができるとは言い難いとしている(『米沢市史 第二巻 近世1』485頁)。〕。 慶長8年(1603年)冬より病床に伏し、翌9年(1604年)2月16日に上杉家の伏見屋敷で死去〔歴史作家楠戸義昭が米沢の郷土史家の説に基づき、菊姫の死因を自殺であると自身の著書などで紹介し、また菊姫の死を扱った小説や一部の解説書なども菊姫自殺説や菊姫憤死説を採用しているが、この説には実際には研究者の言及もなく、またその根拠とされる史料についても不明な点が多く、これを史実と見なすにははなはだ信憑性に欠ける。「人物・逸話」の章を参照。〕。享年47。菊姫死去の報を聞いた景勝や上杉家の家臣たちの哀惜の有様について、『上杉家御年譜』には「悲歎カキリナシ」とある。 法名は大儀院殿梅岩周香大姉。墓所は京都妙心寺亀仙庵(現隣華院)。後年米沢林泉寺にも墓碑が建立された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菊姫 (上杉景勝正室)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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