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申包胥(しん ほうしょ)は春秋時代の楚の政治家。姓は羋、氏は王孫、または封地名から申、諱は包胥。王孫包胥とも通称される。平王、昭王、恵王の3代に仕え、呉の尖兵となったかつての僚友伍子胥に抗した。 == 生涯 == === 友への諫言 === 伍子胥が楚にいた頃、友人として親しく交遊したが、紀元前522年、子胥の父兄が主君の平王により誅殺される事件が起きる。復讐をする為に楚を出奔する際、楚を必ず転覆させると誓う子胥に対して、包胥は私は必ず存続させると言い袂を別った。 後に呉の将軍となった伍子胥は、紀元前506年の柏挙の戦い(zh)において楚を陥れ、すでに死去していた平王の墓を暴き、屍を三百回鞭打った。 この苛烈な所業に対して、山中に逃れていた包胥は人を遣わし問いただした。 「君の復讐はなんと酷い事か。私は聞いた事がある、一時の凶暴が天に勝とうとも、天が定まればいずれ破られると。君はかつては北面し、平王に仕えた身だ。その屍を辱めるとは、いずれ天が定まれば、人の凶暴など長くはないのではないか。」 この詰問に対して子胥は「日が暮れて道が遠い、故に倒行してこれを逆施するのみだ。」(私には時間がなく、道理に従って物事を進める事が出来なかった。)と弁明した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「申包胥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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