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申年がしん(さるどしがしん)は、鳥取藩における天保の大飢饉の呼称。その悲惨さは近年まで恐怖の伝説として語り継がれていた。「がしん」とは、各地の方言で「餓死」が転訛した飢饉を表す言葉〔昔の茨城弁集/茨城方言大辞典/か 〕で、鳥取藩内における飢饉がいよいよ本格化した1836年(天保7年)が申年であったことから、この名で呼ばれた。 == 経緯 == 1831年(天保2年)に東北地方から始まった天保の大飢饉は、のち全国に及び、その窮状は悲惨を極めた。鳥取藩でも例外ではなかった。 * 1831年(天保2年) : 鳥取藩領へ、隣国の但馬・播磨・美作から飢えに耐えかねた人々が多く入り始める。藩内の町や村にも、行き倒れや捨て子が数多く見られるようになる。 * 1833年(天保4年) : 邑美郡岩坪・気多郡母木(ほうぎ)・気多郡青谷・同郡姫路・岩井郡湯村で相次いで大火が発生し、村人の大半が焼け出される。 : 12月5日、不作のため鳥取藩が在中に2歩の御救米を施す。 * 1834年(天保5年) : 藩内暴風雨で洪水が発生する。青谷海岸に帆立貝が異常発生する。 * 1835年(天保6年) : 5月22日、藩内暴風雨で洪水が発生する。 * 1836年(天保7年) : 春から天候不順で雨が降り続き、田の水も温まらなかったため、田植えができない状態となる。 : 夏、邑美郡覚寺の狼庵に50人ほどの尼僧が集まり、法華経の加護を信じて祈る。 : 8月27日、異常な冷害による凶作のため、鳥取藩が在中に3歩の御救米を施す。因伯両国在方の難渋人を両国の全在方人口28万7千人中、約10万人と見積もる。 : 因伯両国の凶作による損害高が全石高42万石中、26万8287石に達する。 * 1837年(天保8年) : この年飢饉のピークを迎える。1月、鳥取城下に多数の難民が食を求めて集まる。藩は城下に小屋を建てて難民を収容したが、極度の不衛生のため9月で閉鎖する。 : 4月、藩内に疫病が流行し、餓死者と合わせて死者2万人に達する。 * 1838年(天保9年) : 11月、八東郡安井村で御救米を着服していた庄屋宅を47人の農民が打ち壊す。 * 1840年(天保11年) : 覚寺の狼庵の良卯尼(りょううに)が、法華経のさらなる加護と餓死者・病死者の冥福を祈って供養塔を建立する。 * 1843年(天保14年) : 播磨国赤穂の町人・吉野屋栄次郎が施主となり、餓死者・病死者の冥福を祈って、邑美郡丸山に飢饉供養塔を建立する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「申年がしん」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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