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町村 金弥(まちむら きんや、安政6年1月12日(1859年2月14日) - 昭和19年(1944年)11月25日)は、日本の実業家、政治家。元大久保町長。政治家・町村信孝の祖父。 == 経歴 == 越前国府中(現福井県越前市、旧武生市)に府中領主本多家の家臣・町村織之丞(第9代当主)、こうの長男として生まれる。父・織之丞は町奉行を務め“清廉潔白の士”といわれ、明治維新後は寺子屋で児童の教育にあたった〔『町村金五伝』445頁。〕。 慶応3(1867年)、8歳の時に府中藩校立教館に入学、父織之丞は金弥に新時代の学問を修めさせる為、東京日本橋に武生名産蚊帳の問屋を営む郷党の人米倉嘉兵衛に託し、明治4年(1871年)、12歳の時に奉公の傍ら夜学に通う〔『北海道牛づくり百二十五年』37-55頁。〕。 さらに上級学校を目指し、英語を学ぶ為、明治6年(1873年)に愛知県英語学校に学ぶ。坪内逍遥、三宅雪嶺らと机を並べる。同校を卒業後明治8年(1875年)に東京の工部大学校予科に学び、英国人教師ハミルトンの教えを受ける。 明治10年(1877年)3月工部大学校を受験合格するが、その年2月におきた西南戦争の軍費増大が予想され、授業料の要らない官費合格者が例年の半分近くに減らされ、金弥は私費生合格であった為、学費に窮した。丁度同じ時期、前年の明治9年(1876年)にウィリアム・スミス・クラークが中心となり開校した札幌農学校が官費の2期生を募集しており、好都合に工部大学校にパスした者は無試験採用だったので、直ちにこれに応じた。 入学した同期生の内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾など18名とともに、明治10年(1877年)8月27日、開拓使御用船玄武丸(644トン)にて品川を出帆、函館を経て9月3日小樽に上陸、乗馬で札幌に向かい、夜札幌農学校寄宿舎(現在の時計台のあたり)に入った。 農学校在学の4年間、主だった教師は皆米国人にて、土木はホイラー、農学はブルックス、化学はベンハロー、衛生学はカッターの4教授で、日本人教師を交えざりしため英語の進歩は著しきものがあった(数学、漢学、教練等の日本人教師が数人いた)。そして、金弥は御雇い外国人として開拓使に勤めていたエドウィン・ダンに就いてアメリカ式農場経営法を学んだ。 明治14年(1881年)7月、札幌農学校を卒業する。同期生は内村鑑三、宮部金吾、廣井勇、南鷹次郎、岩崎行親、新渡戸稲造、藤田九三郎、足立元太郎、高木玉太郎と金弥の10名であった〔昭和15年12月『札幌同窓会 第63回報告』1-3頁。〕。 同年、真駒内牧牛場を管理。明治23年(1890年)、雨龍華族組合農場事業主任となる。明治24年(1891年)、雨竜町村農場を経営、後小作制とする。明治30年(1897年)、十勝開墾合資会社農場長となる。 明治34年(1901年)、陸軍省で農事専任技師を務め、軍馬補充部に属し釧路、岩手、福島を担当。明治43年(1910年)、東京に転勤し、大正5年(1916年)に陸軍省を退職。 以降10年、大久保町長を勤め、町長退職後は自適の生活を送っていたが、戦争中、五男金五に伴われ生まれ故郷武生に疎開した。 昭和19年(1944年)11月25日、郷里の福井県武生(現在の越前市)で亡くなる。86歳であった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「町村金弥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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