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町田則文[まちだ のりふみ] 町田 則文(まちだ のりふみ、1856年12月22日(安政3年11月25日) - 1929年(昭和4年)11月23日)は、日本の盲学校校長。初期盲教育の充実に努めた。 == 生涯 == 1856年(安政3年)に、常陸国(現在の茨城県)で生まれる。1878年(明治11年)に東京高等師範学校中学師範科を卒業し、茨城師範学校予科の教師になる。その後、愛媛県尋常師範学校教頭・校長、埼玉県尋常師範学校校長を歴任してから、1899年に女子高等師範学校教授に就任。1910年に、東京盲唖学校が分離してできた東京盲学校の初代校長になる。この盲聾分離にあたっては、東京盲唖学校長をしていた小西信八が、より未熟だった聾唖教育を担当して新設の東京聾唖学校長に就くこととし、盲学校を担当する者として町田に白羽の矢が当たったのであった。小西信八は、その後、1925年に東京聾唖学校を退官するまで校長を務めた。 盲教育についての経験がなかった町田は、就任前に国内外の盲教育について研究をして、草創期を越えたとはいえ、未開拓だった盲教育に取り組んだ。町田が就任する前には、盲学校の盲人教師の身分は嘱託で、報酬も少なかったという。町田は、盲人教師も晴眼の教師と同じ「本官」にするように文部省に交渉して、これを実現した。さらに奥村三策と萩岡松韻を高等官にと交渉もした。盲人で初めて高等官になったのはこの2人であった。盲人の教員はしばらく嘱託をしてから本官になるということが長く続いた。点字は、すでに石川倉次考案のものが1890年に採用されていたが、その後も、仮名遣いや符号の完成には年月を要した。石川と町田の間で表記法についての相談・協議も行われた。校長をしている間、『内外盲教育』(1912 - 1920年)、『帝国盲教育』(会員の研究発表の場でもあったが、町田は終始海外の盲教育事情の紹介記事を寄稿した)、『盲教育』の3雑誌の発行人になるとともに、『ブライユ点字の沿革の概要』『盲人心理学』などを著して欧米の盲教育を日本に紹介し、視覚障害教育の発展に尽くした。1911年に、石川倉次が執筆し、著作権者文部省として出版された『日本訓盲点字説明』の出版の労をとったのは町田であったが、この本が文部省著作で出版されたことで、点字が周知徹底されることになったし、1926年に初めて点字投票が認められることにもつながったという。校長だったが、専修科生の校外学習を受け持ち、見学先では「盲人ですので、さしつかえない限り触れさせてください」と頼むなど、盲人の社会知識の涵養にも意を配っていた。1929年11月23日に逝去した。享年74であった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「町田則文」の詳細全文を読む
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