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町田睿 : ウィキペディア日本語版
町田睿[まちだ さとる]
町田 睿(まちだ さとる、1938年(昭和13年)2月17日 - )は、日本銀行家フィデアホールディングス取締役会議長。北都銀行取締役会長。荘内銀行取締役相談役。ノースアジア大学客員教授秋田県立秋田高等学校同窓会会長(第十代)。2014年(平成26年)旭日小綬章受章。
== 来歴・人物 ==
両親とも教職に従事する家庭の4人兄弟の長男として、秋田県仙北郡千屋村千畑町を経て、美郷町)に生まれ、後に秋田市に移住する〔「この人と語る 荘内銀行頭取 町田睿氏--120周年機に,東北のキラキラ光る銀行に「革新の金融情報サービスグループ」をめざす」 『金融ジャーナル』 1997年8月号〕〔「地域とともに(第61回)荘内銀行 町田睿頭取に聞く 念願の東証1部上場を果たす「革新の金融情報サービスグループ」へ」 『金融ジャーナル』 2006年9月号〕。
秋田県立秋田高等学校に進学し、同校では生徒会長を務め、卒業後は東京大学法学部に進む〔「ことばの肖像「雑種混交を進めることが大事」 」『読売新聞 秋田』 2011年1月10日〕。在学中のクラスメートには、堤富男通産省事務次官永島旭中国銀行頭取らがいた〔「新社長 町田睿(荘内銀行頭取)都銀で鍛えた戦略眼で金融再編の主導目指す」『週刊ダイヤモンド』 1995年12月2日号〕。
就職の際、当時は金融機関が最も早くから就職活動を受け付けており、それならば銀行を受けようと思い、三菱銀行富士銀行のどちらがよいか先輩に相談した所、「何の係累もない、田舎者は(三菱銀では)だめだ。」のアドバイスを入れ、大衆性があるとされていた富士銀に入行した〔。
同行時代は一時体調を崩した時期もあったが、総合職一般職の新人事制度の立案、他行差別化を図るための商品企画、広報戦略等を手がけたほか、従業員組合の執行委員長も歴任〔『荘内銀行はなぜ顧客に選ばれるのか? - 勝ち残りに賭ける、ある地銀の挑戦 -』P162。〕。さらに全国銀行協会一般委員長も務め、富士銀のエースとして活躍した。町田と同期である他行企画担当役員は、その後全員頭取に昇格している。これに関して町田は多くを語らないが、「私は、ずっと、裏方仕事に徹していました。」と専門誌の取材において述べている〔「人物月旦 町田睿氏(荘内銀行頭取) 東北の旗一本」 『週刊金融財政事情』2002年2月24日号〕。
総合企画部長時代、かつてトップ都銀であったものの再編に出遅れ、劣勢を強いられた富士の浮上策として合併戦略の緊急性を掲げ、書面に自身の見解をしたため役員へ提起する。さらに筆頭常務在任時、営業基盤の拡充も可能である上、信託部門を併営する大和銀行(現:りそな銀行)との合併を提言する。それに対し頭取も積極的に動き、会長も支持してくれたが、副頭取が先方の副頭取は大学時代のゼミの親友として提言を引き取った。しかし合併へ向け進捗することは無く沙汰やみとなった〔「シリーズ時代を語る㉕ 町田睿」『秋田魁新報』2015年5月8日〕。その後、橋本徹頭取から荘内銀行入りを打診される。その申し出を鬱屈した思いや喪失感を抱きつつも応諾した〔「シリーズ時代を語る㉖ 町田睿」『秋田魁新報』2015年5月9日〕〔橋本は15年3月、鶴岡で開催された町田の叙勲祝賀会で「新米頭取の私をしっかり支えてくださいました。リーダーに求められる要件を全て備えられた真のリーダー。次の頭取候補として最有力の一人でした。」と祝辞を述べた。「町田取締役会議長の叙勲祝賀会に220人」『日本金融通信』 2015年3月27日〕。
1994年(平成6年)、荘銀副頭取に着任する。当時の荘銀はバブル崩壊による株価低迷や運用の失敗等で149億円に及ぶ含み損を抱え、大蔵省から決算承認銀行の指定を受けていた〔『荘内銀行はなぜ顧客に選ばれるのか? - 勝ち残りに賭ける、ある地銀の挑戦 -』P168、170。〕。そこで閉塞感を打破することや、全行員に対する意識改革を促す端緒とすべく、町田の主導によって行員の約1割を富士銀本部部署へトレーニーへと派遣することが企画された。その最中には、町田が古巣の総合企画部を訪れ、80名ほどの管理職から女性に至る総員に「迷惑をかけるがよろしくお願いします。」と頭を下げて回った。その様子を伝え聞いた派遣行員は、町田の経営改革にかける熱意を感じ取った〔『荘内銀行はなぜ顧客に選ばれるのか? - 勝ち残りに賭ける、ある地銀の挑戦 -』P168、176、177、178。〕。
翌95年、頭取に昇格する。在任時はヒト、モノ、カネそして情報の集積する山形市周辺部への攻勢の橋頭堡として荘銀山形ビルの建設、東証1部への上場さらには、新たなリテールチャネルとしてのインストアブランチの展開開始等、都銀で培ったノウハウアレンジして矢継ぎ早に施策を講じ、従来「殿様銀行」などと揶揄されていた弛緩した組織に大変革をもたらし、小粒ではあるが個性の光る金融機関へと変貌を遂げさせた。そして、99年の暮れには規模の拡大を狙い殖産銀行との対等合併を発表。名称もミライオン銀行と決定されるも、システム統合で合意が得られなかったことや、殖銀内部に反対論が台頭し00年4月、合併は白紙還元に至った〔『荘内銀行はなぜ顧客に選ばれるのか? - 勝ち残りに賭ける、ある地銀の挑戦 -』P199。〕。
北都銀行との資本提携方針が決まったことと、頭取在任期間が13年にも及んだことから、2008年(平成20年)6月に取締役会議長に退き、代表執行役会長には旧富士銀時代の元部下である里村正治(当時・代表取締役副頭取)が、代表執行役頭取にはプロパーの國井英夫(当時・代表取締役専務)がそれぞれ昇格した。
2009年(平成21年)9月30日付で、荘銀の取締役会議長は辞任。翌10月1日より、新たに、フィデアホールディングス取締役会議長と代表権のない北都銀行取締役会長にも就任した。また、会長就任に伴い、50年ぶりに帰郷し秋田市内に転居した〔日本経済新聞 2009年11月19日〕〔「町田荘内銀議長、北都銀会長へ 営業戦略などサポート」『秋田魁新報』 2009年9月26日〕。
2011年(平成23年)6月、非常勤の取締役相談役として、荘銀の役員に復帰。
2012年(平成24年)4月には、懇意としている新田嘉一東北公益文科大学理事長から定員割れが続き、厳しい環境下に置かれる同大学長への就任を要請され、受諾。大学の改革に取り組み、2014年(平成26年)4月、同大理事に退いた。また同年6月には、秋高同窓会会長に就任した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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