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町野幸和[まちの ゆきかず]
町野 幸和 (まちの ゆきかず、天正2年(1574年) - 正保4年6月26日(1647年7月28日))は、安土桃山時代の武将、江戸時代初期の旗本。町野幸仍(ゆきより)の子。妻は牧村利貞の娘のおなあ(のちの祖心尼)。斎藤利宗の三男の町野幸宣を養子とした。養女に徳川家光の側室お振の方(自証院)。通称長門守、官途玄蕃頭、玄蕃允。法名は道駕。 蒲生氏郷に仕え、小田原征伐、奥州仕置に従軍。氏郷が会津を領すると父とともに猪苗代城に入り、のち二本松城(天正18年(1590年)8月~慶長3年(1598年)3月)に入る。さらに蒲生家の転封に合わせて下野国真岡、陸奥国白河・小峰城などへ移る。寛永3年(1626年)10年前に争って失脚させた蒲生郷喜、蒲生郷舎兄弟と再び対決して今度は反対に失脚し、浪人となり江戸に出た。寛永9年(1632年)5月、徳川家光に仕え、鉄砲頭になり同心50人を付けられ、甲斐国内に5000石を賜り、布衣の着用を許される。 妻のおなあ(牧村利貞の娘)との間に娘がおり、この娘が岡吉右衛門に嫁いで生まれたのが徳川家光の側室となったお振の方である。 == 関連項目 ==
* 春日局 * 蒲生郷舎
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「町野幸和」の詳細全文を読む
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