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畠山尚慶 : ウィキペディア日本語版
畠山尚順[はたけやま ひさのぶ]

畠山 尚順(はたけやま ひさのぶ / ひさより〔「尚順」の読みについては、「順」の字を受けた遊佐順盛の読みから、前者が有力である。遊佐順盛については日本人名大辞典_遊佐順盛 を参照。〕)は、戦国時代武将守護大名室町幕府紀伊河内越中守護。足利氏の支流畠山氏出身で畠山氏の一派畠山尾州家の当主。
畠山政長の子。稙長長経政国晴熙(はるひろ)の父。初名は尚慶(ひさよし/ひさのり)、後に尚順と名乗るが、更に父・政長の1字を取って尚長(ひさなが)と改名した。いずれも「尚」の字は室町幕府第9代将軍足利義尚より偏諱を受けたものである。通称は次郎、官位は尾張守。号は卜山。法号は勝仙院竜源徳陽。
明応の政変で没落して逼塞を余儀無くされたが、情勢の変化に乗じて家督の奪還を果たした。後に二転三転する畿内の情勢に見切りを付けて領国へ下向、実効支配を確立しようとしたが、失敗して家臣団に追放され再度没落、実権を取り戻せず死去した。
== 生涯 ==

=== クーデター ===
父政長は応仁の乱畠山義就(総州家)と東西に分かれ壮絶な家督争いを展開したことで有名である。延徳2年12月(1491年)には義就が没し、尾州家の優勢は決定的となっていた。尚順は9代将軍足利義尚一字を貰い元服するなど、名門守護家の後継者として歴史に登場する。延徳4年(1492年)、10代将軍足利義材(義尹、義稙)に従っての近江への遠征(長享・延徳の乱)など実績を重ねてゆく。
明応2年(1493年)に父が義材を動かし宿敵である河内の畠山義豊(義就の子)討伐に向かうと尚順もこれに同行した。しかし、義材と父に反発する細川政元日野富子伊勢貞宗と結んでクーデターを起こし、新たな将軍として義材の従兄に当たる義遐(義澄)を擁立する(明応の政変)。逆に孤立無援となった父は河内正覚寺において重臣の多くと共に自決、義材は捕らえられ京都で幽閉され、尚順は辛くも紀伊へ逃げ延び尾州家の家督を継承したものの、畠山氏の家督は総州家の義豊に奪われてしまった。
父と共に自決した重臣の中には、河内守護代であった遊佐長直など、これまで父の統治を支えた多くの人材が含まれており、在国していた越中守護代の神保長誠は健在であったが、既に病身であり、政元の監禁から逃れた義材を迎えることに成功したものの(越中公方)、越中の尾州家の地盤をおさえるのがやっとの状態であった。
紀伊逃亡後は5月に襲撃した政元方の赤松政則の水軍を紀伊海賊の力を借りて撃破、9月に義豊の紀伊侵攻があったものの、これは全て退けており、父の時に主権を確立した紀伊において尾州家の軍事的優位は動かなかったものの、河内への反攻はしばらく後のことになる。明応4年(1495年)3月に義豊が紀伊南部の国人達と図り再度紀伊へ侵攻した時も撃退、同年10月と翌5年(1496年)10月の河内侵攻は失敗したが、紀伊の反対勢力の駆逐と与党の糾合に尽くし徐々に力を蓄えていった〔大阪府、P292 - P297、朝倉、P158 - P160、弓倉、P38 - P39、P188 - P191、福島、P51 - P55。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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