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畠山慶致 : ウィキペディア日本語版
畠山慶致[はたけやま よしむね]

畠山 慶致(はたけやま よしむね〔読みは父・義統と同じとなるが、「慶」の字は能登畠山氏初代当主・畠山満慶と同じ読みで「のり」と読む可能性も否めない。或いは同時期に畠山尾州家(政長流)の当主であった畠山尚慶(政長の子、のちの尚順)から偏諱を受けたとも考えられ、この場合でも読みについて同様のことが言える。〕)は、室町時代後期の能登守護大名。能登畠山氏の第5代当主。
== 生涯 ==
第3代当主・畠山義統の次男として生まれる。明応6年(1497年)に父が死去した後、家督は長兄の義元が継いだが、これに不満を持った守護代遊佐統秀らによって対抗馬として擁立され、明応9年(1500年)に兄が統秀によって追放されると、当主として擁立された。しかし永正3年(1506年)、北陸で一向一揆が起こり、続いて義元と協力関係にあった足利義稙将軍に復帰すると、畠山家臣団の中で義元の復帰を望む声が上がったため、慶致は隠居して義元が当主として復帰することとなった。ただし、自分の嫡男である畠山義総を義元の養嗣子としている。
その後は兄・義元を助けて大名権力の強化を図った。永正12年(1515年)に義元が死去して義総が跡を継ぐと、その実父としてなおも二元政治を行なった。
大永5年(1525年)閏11月18日、七尾城にて死去した。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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