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畠山持富[はたけやま もちとみ] 畠山 持富(はたけやま もちとみ、生年不詳 - 宝徳4年(1452年)は、室町時代後期の武将。河内畠山家当主・畠山満家の子。子に弥三郎(政久)、政長がいる。幼名は弥三郎。官位は尾張守。 畠山満家の三男として生まれる。生誕年は不明だが、長兄(異母兄)の持国、次兄(同母兄)の持永と同様、室町幕府第4代将軍足利義持の偏諱(「持」の字)を賜っていることから、義持の在職中に元服(弥三郎からの改名)は済ませている筈である。 嘉吉元年(1441年)、長兄の持国が家督を更迭されて代わりに次兄の持永に与えられたが、嘉吉の乱の影響で赦免された持国が持永を討ち取り家督に復帰した。持富は持永の屋敷にいた所を持国の手引きで脱出した。 その後、持国に嫡子がいなかった事(庶子(持富の甥)の義就は石清水八幡宮に出される予定だった)から持国の後継者になっていたが、文安5年(1448年)に持国は跡目を持富から義就に変更した。それから4年後に持富は死去した。 しかし、後継者変更に一部の家臣団は納得せず、持富の2人の子、弥三郎・政長兄弟を擁立して持国父子に反抗、応仁の乱の一因を作り出した。 東京大学編纂資料 『大日本史』その他の資料において、寶德四年に畠山持富が薨去した具体的な記述が無く根拠は示されていない。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「畠山持富」の詳細全文を読む
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