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畠山義就 : ウィキペディア日本語版
畠山義就[はたけやま よしひろ]

畠山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将守護大名である。河内紀伊山城越中守護。足利氏足利将軍家)の一門にて室町幕府三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅義豊(基家)。猶子に政国
家督相続を巡って従弟の弥三郎政久政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。
==生涯==

===義就の出自===
義就の母は、義就のほか、小笠原長将との間に持長〔 『二川物語』、『豊前豊津小笠原家譜』。長将の弟政康の子としているが、実際には長将の子とされる。但し、持長の生年の応永3年(1396年)から考えると疑問視する向きもある。〕を、飛騨江馬氏との間にも子をもうけている。また『東寺過去帳』には義就は皮屋の子であり、東寺の僧祐栄とは従兄弟であるとしている。これらのことから当時、義就の母は様々な異性と関係をもつ類の女性であり、持国の実子ではないとの説があったことが伺える。『大乗院寺社雑事記』には、「義就の元で暮らす桂女(遊女のこと)」の記述があり、一族の略系図が添えられている。それに拠れば、「土用」という名の女に「畠山之桂也」と書かれており、文明12年当時70歳であることが知られる。従って、義就は「土用」27歳の時の子である可能性が高いとする研究がある〔横澤信生「享徳三年四月三日畠山家分裂の実相」富山史壇157号、2008年。〕。
こうした事情により、義就は嫡子とはされず、石清水八幡宮の社僧になるはずであったが、12歳の時に俄に父持国に召し出されたことから、元々継嗣と決まっていた叔父持富とその子弥三郎政久政長兄弟らとの凄絶な家督争いが勃発することになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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