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畠山義紀[はたけやま よしとし] 畠山 義紀(はたけやま よしとし、享保5年4月15日(1720年5月21日) - 寛政11年2月12日(1799年3月17日))は、高家旗本。出羽米沢藩主上杉吉憲の三男。生母は山本氏。上杉宗憲、上杉宗房、上杉重定は異母兄弟にあたる。初名は義雄。幼名は貞千代、通称は織部。官位は従四位上侍従、下総守。 元文6年(1741年)には石高は3千100石で木挽町築地に居住していた。 == 経歴 == 元文元年(1736年)4月8日、3120石を知行していた高家旗本・畠山義躬と養子縁組を行う。元文4年(1739年)11月7日将軍徳川吉宗に御目見する。元文5年(1740年)4月6日養父の隠居により家督を相続する。延享2年(1745年)2月15日高家に就任し、従五位下侍従・飛騨守に叙任する。後に従四位下に昇進し、下総守に改める。宝暦12年(1762年)6月5日高家肝煎に就任する。それにともない従四位上に昇進する。明和4年(1767年)閏9月12日高家肝煎を辞職する。明和6年(1769年)4月5日隠居し、養子義福に家督を譲る。寛政11年(1799年)2月12日死去、80歳。 正室は義躬の娘、継室は上杉勝延の娘(幕府に届けず)。五男六女あり。その他に養子、養女も各一人いる。養子義福(高家旗本畠山国祐の次男)、次男日野資施(高家旗本日野資直の養子)、三男義周、四男山本常誠(小田原藩士山本常芳の養子)らである。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「畠山義紀」の詳細全文を読む
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