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畠山 重忠(はたけやま しげただ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。 源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれ(畠山重忠の乱)、子孫は名字を変えた。館は、鎌倉筋替橋の東南。 存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。 == 生涯 == === 頼朝への臣従 === 畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある。多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に渡り忠実な家人として仕えた。 治承4年(1180年)8月17日に義朝の三男・源頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵。この時、父・重能が大番役で京に上っていたため領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。23日に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走。相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇。合戦となり、双方に死者を出して兵を引いた。26日、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡。重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取った(衣笠城合戦)〔重忠の母については、三浦義明の娘であるというのが通説であるが、肥後国小代氏に伝わる「小代系図」(『肥後古記集覧』所収)には蓬莱経重が江戸重継の娘を母とし、畠山重忠とは同腹であると記されている。また、義明と重忠の年齢差は72歳差あり、祖父と孫の年齢差としては大きすぎる。このため、重忠は畠山重能側室である江戸重継の娘の所生で、正室である三浦義明の娘の養子となったもので(経重は畠山氏から児玉党系秩父氏(平治の乱で没した秩父行俊)の養子になったとみられる)、三浦氏と重忠には血縁関係がなかったとする説がある(清水亮「武蔵国畠山氏論」「在家領主としての東国豪族的武士団」『シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻 畠山重忠』20頁および175-176頁)。〕。 9月、頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入った。10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏した。『源平盛衰記』によると重忠は先祖の平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという。重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入った。 重忠は御家人に列し、頼朝の大倉御所への移転や鶴岡八幡宮の参詣の警護などの『吾妻鏡』の記事に重忠の名が見える。また、養和元年(1181年)7月の鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳いている。この頃に重忠は頼朝の舅の北条時政の娘を妻に迎えている。だが、この時期の重忠は父の重能が未だに平家方にあったこともあり、必ずしも頼朝の信任を得ていなかったとする見方もある。また、同じ秩父一族の中でも小山田氏が重用されて畠山氏は待遇面で格差をつけられ、更に平家郎党期に惣領の地位を占めていた河越氏は更に冷遇されて後に誅殺されるなど、頼朝が一族間で待遇に格差をつけて内部分断を図ったとする見方もある〔清水亮「武蔵国畠山氏論」『シリーズ・中世関東武士の研究 第七巻 畠山重忠』・25-26頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「畠山重忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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