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商 鞅(しょう おう、紀元前390年 - 紀元前338年)は、中国戦国時代の秦国の政治家・将軍・法家・兵家。 姓は姫、氏は公孫。名は鞅。また、衛の公族系のために衛鞅(えいおう)ともいう。なお商鞅とは、後に秦の商・於に封じられたため商君鞅という意味の尊称である。法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いたが、自身は周囲の恨みを買って処刑された。 == 生涯 == === 仕官まで === 彼は衛の公族出身で、魏の恵王(在位:紀元前370年〜紀元前335年)の宰相〔中国語で正しくは「」の文字で表すが、日本では公叔座の文字で表すことが多い。〕の食客となり、中庶子〔周礼「夏官司馬」では「諸子」、礼記「文王世子」では「庶子」。いずれも公族を掌る官職。〕に任ぜられる。 公叔座は死去する際に、恵王に後継の宰相として公孫鞅を推挙した。しかし恵王はこれを受け入れず、公叔座はこれを見て「公孫鞅を用いることをお聞き入れくださらないならば、私はお前を殺すように進言した。お前はすぐに逃げた方が良い。」と述べたが、公孫鞅は「私を用いよというあなたの言葉を王が採用出来ないならば、王が私を殺せというあなたの言葉を採用するはずがない。」と述べて、逃亡しなかった。公孫鞅の考えどおり、恵王は公叔座が耄碌してこんな事を言っているのであろうと思い、これを聴かずに公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。 公孫鞅は魏を出て秦に入国し、宦官の景監を頼って秦の若き君主孝公に面会する事が出来た。公孫鞅は自分の弁舌が発揮するのはここぞとばかりに孝公に向かって熱弁した。最初に会った時はまず最高の為政者である帝の道を説いた。しかし、孝公は退屈そうにして途中で居眠りしてしまった。次に会った時は一つ程度を下げて王の道を説いた。しかし、この時の孝公の反応は変わらず、三度目に会った時にさらに程度を下げて覇者の道を説いた。そうすると孝公は熱心に聞き入り、無意識の内に公孫鞅ににじり寄るほどにこの話を気に入った。 孝公の信任を受けた公孫鞅は国法を変えようとしたが、孝公は批判を恐れて躊躇した。これに対して公孫鞅は「疑行は名なく、疑事は功なし」と述べて孝公を励ました。「疑」は確信を欠いたあやふやな気持ちをいう。なにごとであれ、やるからには自信を持って断行しなくてはいけない。あやふやな気持ちでやったのでは、成功もおぼつかなければ名誉も得られないという意味。この言葉は後世にて故事成語となった。しかしなお甘竜(かんりゅう、かんりょう)・杜摯(とし)といった者たちが旧制を変えるべきではないと述べたが、公孫鞅はこれを論破し、孝公も公孫鞅の言を善しとした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「商鞅」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shang Yang 」があります。 スポンサード リンク
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