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白岩氏 : ウィキペディア日本語版
白岩氏[しらいわし]

白岩氏(しらいわし)は、日本の氏族の一つ。大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族である。居城は白岩城(現在の山形県寒河江市白岩)。



== 概要 ==

白岩(寒河江市白岩)の地は、寒河江川上流に大江氏宗家吉川の地を経て庄内と接し、寒河江川扇状地の上流と下流を分かつ要地であった。また、寒河江川は砂金を産出することが古代より知られており、上流の吉川(現:西川町吉川)出身の4代満教が下流の溝延(現:河北町溝延)に入り中流の白岩を押さえたことは、寒河江川の利権の多くを手にしたと考えられる。白岩氏の起こりは、大江時茂が南北朝の争乱に備えて寒河江荘を子や兄弟に分割して城や楯を築かせ、白岩の地には嫡男溝延茂信の子政広を配したことに始まる。白岩城は葉山山麓の南端、標高150mから220mの丘陵地に位置し、城域東西600m、南北450mの方形の区域に5つの楯を有する山城であった。北側東側には実沢川が流れ天然の要害であり、南側に3つの虎口を有していた。
4代満教溝延氏から入る〔元々は出羽吉川氏元家の二男〕が、この頃になると白岩氏は領主権を拡大し、応仁2年(1468年寒河江氏の干渉なしに陸奥国分寺領を本拠とする国分河内守に渡置状を発給し、文明10年(1478年)白岩氏の菩提寺として洞興寺を建立した。また1506年頃の最上義定の進攻を寒河江氏などと共に防いでいる。さらに、永正13年(1516年最上氏・伊達氏の争いでは和睦の仲介をしたという。永正9年(1512年)庄内で武藤氏と砂越氏の戦いがあり、永正15年(1518年)義定は勝者の進出を想定して寒河江まで出陣する。この時、5代満広は義定に従い忠節を尽くした〔「天文本大江系図」『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』〕。
永禄年間(1558年1570年)6代宗広のころには寒河江氏・溝延氏とともに慈恩寺の旦那の一人にまで成長している。その後8代白岩広教は最上義守の娘を娶り最上氏と縁戚関係を結んだ〔『悲劇の回り舞台 最上一族の事件簿』p.154-156〕。天正最上の乱では寒河江氏が最上義光に付いたのに対し、白岩氏・左沢氏溝延氏伊達輝宗・最上義守に付き、三氏は寒河江氏の籠る寒河江城白鳥長久天童氏などと共に攻め、本丸を残して破壊してしまう。天正10年(1582年)の秋田愛季への『最上義光書状』によれば、真室川武藤氏との争いの際、白岩氏が武藤氏との婚姻関係を理由に謀反を起こしたため白岩へ軍を向け隷属させ、鮭延氏への救援が遅れたという。後に最上義光の甥である松根光広を婿養子とした。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「白岩氏」の詳細全文を読む



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