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白川琴水(しらかわ きんすい)は明治時代の漢詩人。本名は幸(さち)、字は友之。飛騨国高山願生寺に生まれ、京都に出て菊池三渓に漢詩を学び、第一高等女学校で教師を務めた後、青木氏に嫁いで名古屋市で没した。 その詩は兪樾の『東瀛詩選』に採られるなど当時の清人に高く評価されたが、死後忘れ去られた。絵画も能くし、『本朝彤史列女伝』では自ら挿絵を描き、願生寺に絵画が残されている。 == 生涯 == 安政3年(1856年)8月10日、飛騨国大野郡灘郷下岡本村願生寺20世慈摂の子として生まれた〔多賀秋五郎「白川琴水とその教育思想」『国士館大学文学部人文学会紀要』第18号、1986年〕。5歳で読書し、7歳で韻語を作ったという〔。 明治6年(1873年)、父慈摂に連れられ、京都東本願寺で翻訳局長を務めていた成島柳北に入門を請うたが、東京に移る予定だったため、代わりに菊池三渓を紹介された〔森岡ゆかり「地歌を漢詩に―白川琴水とその漢詩をめぐって―」『書法漢學研究』第8号、2011年〕。明治7年(1874年)大阪に出て集成学校(大阪府立北野高等学校)で英学を学んだが、10月兄の死去を受けて一旦帰郷し、養蚕に従事した〔。 明治10年(1877年)1月京都府立第一高等女学校(京都府立鴨沂高等学校)に入学し、3月1日明治天皇が女学校に行幸した際、学業優等のため康煕字典を下賜され、2月9日には英照皇太后、皇后(昭憲皇太后)が行啓し、白絹を下賜された〔。3月17日准六等助教授、明治12年(1879年)4月准一等授業補となったが、12月辞職した〔。女学校ではウェットンに油絵を学び、明治11年(1878年)6月京都博覧会に出品して妙技賞銅牌を受賞した〔。また、村田香谷に日本画を学んだ〔『名古屋市史』人物編第2 p.365〕。 明治13年(1880年)、名古屋市の洋反物商青木錠太郎に嫁ぎ、二女一男を儲けた。明治23年(1890年)9月1日死去し、東区針屋町正敬寺に葬られた〔。法号は釈尼慈恵〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白川琴水」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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