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白川郷・五箇山の合掌造り集落 : ウィキペディア日本語版 | 白川郷・五箇山の合掌造り集落[おぎまちしゅうらく]
白川郷・五箇山の合掌造り集落〔この記事名は文化庁の表記に基づくが、「・」を「と」にして「白川郷と五箇山の合掌造り集落」とする文献も見られるユネスコ世界遺産センター (1998)、世界遺産アカデミー (2005) など。なお、世界遺産アカデミーは『世界遺産検定公式テキスト (1)』(毎日コミュニケーションズ、2009年)では、「白川郷・五箇山の - 」としている。〕(しらかわごう・ごかやまのがっしょうづくりしゅうらく)は、飛越地方〔飛騨地方と越中地方(南部)を並びさす言い方。岐阜県の日本海側に位置する飛騨高山地方は、隣接する富山県南部と文化的・経済的な結びつきが強い(飛越地方の概要 )。〕の白川郷と五箇山にある合掌造りの集落群である。1995年12月9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、日本では6件目の世界遺産となった。 == 歴史 ==
白川郷(岐阜県大野郡白川村)と五箇山(富山県南砺市)は、いずれも飛越地方庄川流域の歴史的地名で、白川郷は上流域、五箇山は中流域である。白川郷は荘白川(しょうしらかわ)ともいい、現在は岐阜県白川村と高山市荘川町に分かれている。五箇山は富山県の旧平村、上平村、利賀村の3村に含まれていたが、現在はいずれも南砺市に属する〔『コンサイス日本地名事典』第4版、2005年、pp.476, 605, 615〕。 この地域は白山信仰の修験者や平家の落人伝説とも結びつきが深い。白川郷の地名は12世紀半ば、五箇山の地名は16世紀にはそれぞれ確認できるが〔日本国政府・文化庁 (1994) の「3-a. 歴史」〕〔ICOMOS (1995) p.43〕、合掌造りがいつ始められたのかは定かではない。江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている〔日本国政府・文化庁 (1994) の「合掌造り家屋の成立時期」〕。 江戸時代の白川郷は金森藩領と浄土真宗照蓮寺領となり、前者はのちに天領となった。一方の五箇山は加賀藩領となり、塩硝生産が保護されていた〔ユネスコ世界遺産センター (1998) p.237〕。塩硝は火薬の原料となる硝酸カリウムで、五箇山では雑草と蚕の糞を利用して抽出する培養法が行われていた。五箇山は流刑地にもなっていた陸の孤島である分、原料調達の長所のほかに秘伝の漏洩を防ぐという意味でも適しており〔中西・日吉・本浄 (1991) p.421〕、稲作に不向きな土地柄で養蚕とともに発達した家内工業の一つであった〔世界遺産アカデミー (2005)、109頁〕。一帯では現在は水田が見られるが、それらのうち少なからぬ部分が戦後に転作されたものであり、もともとの農業の中心は、焼畑によるヒエ、アワ、ソバ、および養蚕のための桑である。ヒエやアワの収穫は自給分が精一杯であったから、その分家内工業の存在が大きくなった〔。 合掌造りは、そうした家内工業の発展にあわせて、大型化、多層化していったと考えられている〔宮沢 (2005)、30頁〕。なお、合掌造りが普及する以前の住居形式については、まだはっきりしていない〔宮沢 (2005)、30-31頁〕。
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