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白陽丸[はくようまる]
白陽丸(はくようまる)は、大阪商船が樺太航路向けとして1942年に建造した貨客船で、日本最大の近海砕氷船である。太平洋戦争で日本海軍に徴用されて軍事輸送に従事したが、1944年に千島列島から北海道へ向かう途中でアメリカ海軍潜水艦に撃沈され、民間人を含む乗船者約1500人のほとんどが死亡した。 == 建造 == 第二次世界大戦前の日本では、樺太が日本統治下であったために、砕氷機能を有する商船の建造が比較的盛んであった。命令航路として樺太定期便が運航され、日本郵船系の近海郵船と大阪商船系の北日本汽船が、鉄道省の稚泊連絡船とともに就航していた〔岩重(2011年)、18頁。〕。一方、当時の日本海軍は正規砕氷艦を「大泊」1隻しか保有しておらず、他に専用砕氷船としては朝鮮総督府の「鎮南丸」など500トン以下の小型船2隻が満州と朝鮮にある程度だった〔日本造船学会(1977年)、286頁。〕。そこで、有事の際には北方作戦用に徴用するため、軍の統制下で有力な砕氷商船の建造計画が進められた。その結果、ライバル企業2社で1隻ずつの準同型船として建造が決まったのが、日本郵船の「高島丸」と大阪商船の「白陽丸」である〔。建造費用も海軍による特殊助成を受けている〔。太平洋戦争勃発により建造中の貨客船のほとんどは貨物船などに計画変更された中、例外的に貨客船のまま建造が続行された〔。 「白陽丸」は三菱重工業神戸造船所で建造され、1942年(昭和17年)8月に進水〔、同年中に竣工した。神戸造船所は砕氷船の建造経験が無かったため、「高島丸」の建造を担当した三菱重工業横浜船渠から線図の提供を受けることになり、船体は同型で主機も同じレンツ式レシプロエンジン2基を搭載した。「高島丸」とは上部構造物の外形などに若干の差があり、わずかに喫水の深い本船の方が同一船体ながら垂線間長が長く、トン数もわずかに大きい5742総トンに達した〔。北日本汽船の既存砕氷船で最大の「白海丸」(2921総トン)や日本の戦前最大の砕氷船である稚泊連絡船「宗谷丸」(3593総トン)を大きく上回るトン数で、北日本汽船が建造中だった「白龍丸」(3181総トン)よりも大きく、当時は日本史上最大の砕氷船となった。その後も、日本の近海砕氷船として本船を越える規模の船は現れていない〔。 砕氷船としての機能も当時の日本船の中では優れたもので、準姉妹船の「高島丸」のデータによると砕氷能力約1mとされる。船首は緩やかな傾斜を帯びた形状の砕氷型で、外板に25mm鋼板を2重に張った強固な構造だった。船体も丸みを帯びた断面の砕氷船独特のもので、舷側は喫水線上まで傾斜がかかっており〔、ローリング(横揺れ)が激しく乗り心地は良くなかった。また、船首と船尾および両舷に注排水タンクが設けられており、厚い氷に衝突して乗り上げた後、タンクに水を出し入れして船体を傾けることで砕氷する機能が付いていた。船体を船首尾方向に傾けるトリミングだけでなく、左右に傾けるヒーリングも可能なことは、「大泊」が有しない新機能だった。結氷期には、破損防止のためにスクリューを鋼製のものと換装する〔日本郵船株式会社 『日本郵船戦時船史』上巻、日本郵船株式会社、1971年、707頁。〕。 戦時の自衛用として船首に砲座が設けられ、8cm砲1門が装備された〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白陽丸」の詳細全文を読む
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