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白雲(はくうん、明和元年(1764年) - 文政8年(1825年)〔内山、平成2年〕)は江戸時代の画僧(浄土宗)。松平定信に仕え『集古十種』の編纂事業に加わった。 法諱は逸誉、のちに良善教順と称した。白雲は画号、別号に閑松堂・松堂・墨癡・蝸牛叟・無心・竹堂など。 == 略歴 == 白雲は京都東山の位の高い人物の子とされる〔奈良(1964年)〕。若いうちに浄土宗十念寺(須賀川)で得度。寛政元年(1789年)、26歳にして同寺第19代住職となる。その後、白河藩主松平定信に画才を認められ閑松堂の堂号〔本覚寺にこの額字が伝わっている。以降に白雲と号した。〕を賜る。以降、谷文晁・亜欧堂田善・巨野泉祐らとともに『集古十種』の編纂事業に加わる。寛政10年(1798年)には白河城内の東林寺に移る。定信の公の相談役になったことも多かったという。秋田藩主佐竹義和とも近しい関係〔菅江真澄「月出羽路」によると文化元年に佐竹義和と会っている。また義和の「あつまの記」白河の条でも文化3年に面談している。〕にあった。 享和2年(1802年)に常宣寺 (白河)第22世住持になり、その後文化3年(1806年)に常念寺(下野黒羽)に住した。定信の隠居後、文化10年(1813年)、50歳にて本覚寺(秋田六郷)の第28代住職となっている。 『集古十種』編纂のため、幾度も諸国を遊歴。寛政11年(1799年)および翌12年(1800年)には巨野泉祐とともに山城・大和・摂津・山陽道に赴き美術品・文化財の調査を行っている〔小林(2000年)〕。『集古十種』古画肖像に掲載される藤原定家像は白雲の模写である。 谷文晁の山水図から多くを学び、真景図に優れた作品を残した。文晁の『名山図譜』に挿図を提供している。皆川淇園・岸駒・村瀬栲亭・維明周奎・田中訥言・吉村孝敬・呉春・円山応瑞・原在中などと交友した。 死期を悟ると弟子の安田田騏を呼び寄せ肖像画を画かせている〔奈良 (1964年)〕。この肖像画は本覚寺と十念寺に伝わり墓もこの二つの寺にある。。世寿62。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白雲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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