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百済王勝義[くだらのこにきし の しょうぎ] 百済王 勝義(くだらのこにきし の しょうぎ、宝亀11年(780年)〔『日本文徳天皇実録』斉衡2年7月戊寅条の没年齢76歳から逆算。『公卿補任』では宝亀10年(779年)生とする。〕 - 斉衡2年(855年)7月〔『日本文徳天皇実録』では斉衡2年7月戊寅に薨去したとするが、同月に干支日が戊寅の日はない。〕)は、平安時代前期の貴族。従四位下・百済王元忠の孫。娘に藤原諸葛室がいる。従五位下・百済王玄風の子。官位は従三位・宮内卿。 == 経歴 == 若くして大学寮で学び、文章道を非常に学習した〔『日本文徳天皇実録』斉衡2年7月戊寅条〕。大同元年(806年)大学少允に任ぜられ、大同4年(809年)右京少進に転じる。 嵯峨朝に入り、弘仁元年(810年)蔵人兼左衛門大尉に任ぜられ、弘仁7年(816年)従五位下に叙爵される。のち、嵯峨朝・淳和朝・仁明朝にかけて、左衛門佐・右京大夫・左衛門督を務める傍ら、弘仁12年(821年)従五位上、天長4年(827年)正五位下、天長6年(829年)従四位下、承和2年(835年)従四位上と昇進を重ねた。承和4年(837年)宮内卿に転じた後、承和6年(839年)には三階昇叙されて従三位となり公卿に列した。 年老いて致仕したのち、河内国讃良郡の山麓に閑居した。鷹狩を盛んに行い、長い療養生活の慰みとしたという〔。斉衡2年(855年)7月薨去。享年76。最終官位は散位従三位。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「百済王勝義」の詳細全文を読む
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