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百済語(くだらご)は朝鮮半島の百済国(紀元前18年-紀元660年)に話されていた言語である。百済の王族は高句麗から出ているため、彼らは扶余系高句麗語を話していたと考えられる(扶余系百済語)。一方百済の民衆は三韓の言葉(韓系諸語)を話していた(韓系百済語)が、どの言語に属すかなどについては不明である。百済語は両語の混合言語とも考えられる。伽耶諸国は三韓の部族によって設立され、韓系百済語(古百済語)は伽耶語とも関連しているかもしれない。 ==詳細== 百済の言語についてはじめて記した史書は『梁書』である。 今言語服章略與高麗同 つまり言語や服装などが高句麗とおおよそ同じだと記している。なお新羅の言語は音節が通常子音で終わる閉音節なのに対して、高句麗と百済そして倭では母音で終わる開音節だったと考えられている〔犬飼隆「古代の言葉から探る文字の道」『古代日本 文字の来た道』大修館書店,2005年,PP.74-77 ISBN 4469290890〕。 『魏書』も『梁書』の記述を踏襲したが、『周書』は、百済王の姓は夫余で、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方民衆はこれを「吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味だということを特記している。 「臣と高句麗は扶余に源を出す」、すなわち百済と高句麗は同族だと考えられていたのである。 李基文(1930年生)(朝鮮語版)は、この呼称の違いは王族をはじめとする支配層と民衆を中心とする被支配層とで言語が異なる二重言語国家だったことを示すものであり、この二重言語状態は高句麗と同じ夫余系言語を話す人々が韓系の言語を話す馬韓の住民を征服したことによって生じたと推定した。この推定に基づけば、『周書』以前の史書が百済の言語を高句麗とほぼ同じと記したのは、支配層の言語である夫余系百済語の方に注目したためであるということになる〔李基文(1972) “國語音韻史研究”,國語學叢書3,塔出版社〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「百済語」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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