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百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)は、大阪府堺市にある古墳群。17基が国の史跡に指定され、23基が宮内庁により天皇陵(3基)・陵墓参考地(2基)・陵墓陪冢(18基)に治定されている。 古市古墳群とともに、巨大な前方後円墳を擁する古墳群として知られる。4世紀末ないし5世紀初頭から6世紀後半頃に築造された古墳が分布する。 == 概要 == 大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、ミサンザイ古墳など、墳丘長200m以上の大型の前方後円墳3基を含む。かつて100基以上の古墳があったとされるが、第二次世界大戦後に宅地開発が急速に進んだため、約半数近くの古墳が破壊され、現存するのはわずか50基に満たない。 堺市北西部に位置し、古代の海岸線に近い上町台地に続く台地上に築かれている。古墳は東西、南北ともそれぞれ約4キロメートルの範囲に分布。 古墳は、前方部が南向きに築造されている上石津ミサンザイ古墳、大山古墳、田出井山古墳などと百済川の谷の両岸に築造された土師ニサンザイ古墳、いたすけ古墳、百舌鳥御廟山古墳の二つの古墳群から構成されている。 この台地の西側の低い背梁部に上石津ミサンザイ古墳が営まれ、その北方へ大山古墳、田出井山古墳などが順次築造されていく一方、百済川の東方へも既述した古墳群が拡大されていったと推測される。つまり、上石津ミサンザイ古墳が先行し、川の東部には百舌鳥大塚山古墳・いたすけ古墳が、次いで西方では大山古墳、川の東方では百舌鳥御廟山古墳がほぼ同時期に造られ、西方の土師ニサンザイ古墳と田出井山古墳が、これもほぼ同時期に築造されたと推測できる〔「畿内における大形古墳群の消長」白石太一郎 『考古学研究』第16巻第1号 1969年1月〕。 2008年9月26日、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)など宮内庁管理下の古墳を含む百舌鳥古墳群・古市古墳群が世界遺産の国内暫定リストに追加された。歴史学や考古学の一部学会には、世界遺産登録やその登録条件となる文化財指定が、宮内庁管理下の天皇陵古墳の公開や発掘調査に道を開くもの〔なお、古墳発掘について日本共産党議員の吉井英勝が、2009年に第171回国会衆議院提出質問主意書第611号「陵墓に指定された古墳の実態に関する質問主意書」 および第171回国会衆議院提出質問主意書第657号「陵墓に指定された古墳の実態に関する再質問主意書」 を提出したところ、宮内庁および日本政府は内閣衆質171第611号 および内閣衆質171第657号 において、「陵墓や陵墓参考地の本義に支障を及ぼさない限りにおいて、保全工事に伴う調査の際の見学の実施や調査結果の公表等に努めている」と答弁している。〕として歓迎する声があるが、調査発掘となれば古墳を破壊することにもつながりかねないとして宮内庁や文化庁、識者の見解等、非常に多くの問題を抱えている。 世界遺産登録のために構成資産を確定する調査(2009年度堺市教育委員会発掘調査)において、聖塚古墳と舞台塚古墳が、古墳ではなく、中世以降に築かれた塚であったことが判明した〔読売新聞2012年1月26日記事。今後も未調査の古墳について発掘調査が実施される予定。〕。聖塚古墳の墳丘とみられていた部分の最下層から、江戸時代の磁器が出土し、18世紀以降に土を盛ってつくられた塚であること、また舞台塚古墳からも、13世紀頃に作成された土器が見つかり、いずれも古墳の可能性が低いとされた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「百舌鳥古墳群」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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