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益子 安宗(ましこ やすむね、永禄5年(1562年) - 寛永12年(1635年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。宇都宮氏の家臣。下野国芳賀郡西明寺城主。本姓は紀氏。受領名は宮内大輔。父は益子勝宗、子に益子家宗。正式な名乗りは紀安宗(きのやすむね)。 勝宗の三男として生まれた。長兄で嫡男の益子信勝が武田信玄から偏偉を授けられたことを宇都宮広綱の正室・南呂院に疎まれ、那須氏の有力家臣・大関氏の下に走ったため、庶子であった安宗が嫡男となる。 もともと、益子氏は紀党といい、清党の芳賀氏ともども紀清両党と称される下野国の有力武士団として下野守護・宇都宮氏の主要な軍事力であった。その後、芳賀氏が宇都宮氏との縁戚関係を背景に台頭し、一方の益子氏は重い軍役に強いられると、次第に半独立化を志向するようになっていた。しかし天正7年(1579年)、益子氏の重臣・加藤上総の讒言により幽閉され、18歳の若さで幼い子・家宗に家督に継承されてしまう。この以後、隠居の身分として余生を過ごした。 == 関連項目 == * 紀氏 * 益子氏 やすむね 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「益子安宗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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