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張 飛(ちょう ひ、? - 章武元年(221年)6月〔『三国志』蜀志「先主伝」〕)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍、政治家。字は益徳(えきとく)。幽州涿郡(現在の河北省涿州市)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯、のち西郷侯。諡は桓侯。子は張苞・張紹・敬哀皇后張氏・張皇后。孫は張遵。 後漢末の群雄の1人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは下述の通り中原に轟いた。その武勇は後世にも称えられ、小説『三国志演義』を始めとした創作作品でも多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を大いに親しまれている。 ==生涯== ===劉備に従う=== 同郡に住む劉備が黄巾の乱に臨んで義勇兵を集めようとした時、他所から流れてきた関羽と共にその徒党に加わり、その身辺警護を務める事となった〔『三国志』蜀志「関羽伝」〕。以後は関羽と共に劉備から兄弟の様な親愛の情を受けることとなったが、大勢の前では劉備を主君として立て、命がけで護衛の任務を務めたという〔『三国志』蜀志「関羽伝」〕。また、関羽の方が数年年長であったため、関羽を兄のように敬愛して仕えていた。やがて劉備が公孫瓚に採り立てられて平原郡の相となると、関羽と共に別部司馬に任じられ、それぞれが一軍を率いる将となった〔『三国志』蜀志「関羽伝」〕。 194年、劉備は身を寄せていた徐州で、徐州牧の陶謙に位を譲られて徐州の牧となる〔『三国志』蜀志「先主伝」〕。建安元年(196年)、劉備が徐州に侵攻した袁術と戦っている最中、張飛は本拠地である下邳の留守を任されていたが、そこで陶謙の旧家臣である下邳の相曹豹と対立した〔『三国志』蜀志「先主伝」が引く『英雄記』によると、張飛が曹豹を殺害しようとしたという。〕。劉備に身を寄せていた呂布が、劉備と袁術が1ヶ月睨みあっている隙に下邳を攻撃すると、曹豹が寝返り呂布に呼応したため、張飛は敗北し、劉備の妻子は呂布の捕虜にされてしまった。劉備と呂布は一旦は和睦したが、再び仲違いを起こし、劉備は曹操の元に身を寄せた。張飛は曹操の呂布討伐に劉備と共に従軍し、その戦いでの功績を認められて、許に戻ったときに曹操より中郎将に任命された。 その後、劉備が曹操に背き、袁紹・劉表に相次いで身を寄せると、それにも付き従って、各地で転戦した。 この間の建安5年(200年)、曹操の臣下である夏侯覇の13-14歳の従妹を、張飛は捕えて妻とした〔『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」。なお、張飛と夏侯氏との間の娘2人はともに蜀の2代皇帝劉禅の后になっている(敬哀皇后および張皇后)。後に魏で司馬懿による政権掌握の政争が起こったとき、夏侯覇がその伝手を頼って蜀に亡命してきている。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「張飛」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Zhang Fei 」があります。 スポンサード リンク
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