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益田兼堯[ますだ かねたか]
益田 兼堯(ますだ かねたか、? - 文明17年5月23日(1485年7月14日))は、室町時代後期の武将。石見の国人領主益田氏当主で第15代七尾城(益田城)城主。益田兼理の子、常兼の弟。貞兼、兼久、女子(陶弘護妻)の父。官位は越中守。 == 生涯 == 永享3年(1431年)、父と兄が大内盛見に従い九州の少弐氏、大友氏と戦い、盛見と共に戦死したため家督を継いだ。以来、益田氏の当主を長期にわたって務め、大内氏のみならず室町幕府とも直接誼を通じ、着実に戦功を積み勢力を拡大させた。寛正年間には畠山義就との合戦(嶽山城の戦い)に参戦して戦功を上げ、引付衆の一員に加えられている〔妙義寺前にある益田越中守兼堯の像の説明碑(益田市観光協会)〕。 応仁の乱の際は大内政弘に従い西軍に属し、文明2年(1470年)の大内教幸(道頓)の反乱の際には、婿の陶弘護を支援し石見の有力国人の吉見信頼らを制圧した。一方で、東軍の細川勝元とも通じていたとされる。なお、寛正2年(1461年)には子の貞兼に家督を譲っていたとされ、晩年は七尾城尾崎丸の山麓にある大雄庵(たいきあん)で隠居した〔益田兼尭 - コトバンク〕。兼堯の墓は大雄庵内にある〔歴史・文化 - 益田市〕〔益田兼堯の墓の紹介 - なつかしの石見の国〕。 雪舟と親交があったと伝えられており、彼が描いた兼堯像(益田市立雪舟の郷記念館蔵)〔益田兼堯像 - 益田市立雪舟の郷記念館 〕は国の重要文化財に指定されている。その他、七尾城跡に近い妙義寺の前に記念像が立てられている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「益田兼堯」の詳細全文を読む
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