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益田宗兼 : ウィキペディア日本語版
益田宗兼[ますだ むねかね]

益田 宗兼(ますだ むねかね、生年不詳 - 天文13年1月10日1544年2月12日))は、戦国時代武将石見国人益田氏第17代当主。通称は熊童丸、孫次郎。官位は治部少輔越中守。父は益田貞兼、母は吉見氏の娘。益田兼堯の孫。尹兼兼久、周久、徳陽、娘(内藤隆時室)の父。
文明15年(1483年)に家督を譲られ、父と祖父から知行を譲り受けた。石見西部の領土を巡って吉見氏や三隅興兼と争う一方、大内義興に従って明応6年(1497年)の少弐政資討伐に従軍、永正5年(1508年)、義興が足利義稙を擁立して上洛すると嫡男の尹兼と共に上洛、在京して外様の有力国人となった。船岡山合戦にも参加、戦功を挙げた。永正15年(1518年)の義興の帰国に伴い石見へ帰還、崇観寺塔頭医光寺を建立した。
天文13年(1544年)に死去。孫の藤兼が家督を継いだ。尹兼は家督を継がなかったとされている。法名は医光寺殿全久宗兼。
雪舟と交流があり、文明15年の家督相続で雪舟から『花鳥図屏風』を寄贈された。
== 参考文献 ==

*『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社島根県歴史人物事典刊行委員会編、山陰中央新報社、1997年。
*『益田市誌 上巻』益田市編纂委員会編、益田市編纂委員会事務局、1975年。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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