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盛田 幸妃(もりた こうき、1969年11月21日 - 2015年10月16日)は、北海道茅部郡鹿部町出身のプロ野球選手(投手)。からまでの登録名は盛田 幸希。 現役時代に脳腫瘍に罹患しながら、リハビリにより復活を遂げた。 == 経歴 == === 現役時代 === 鹿部中学時代は山本鉄弥の指導を受けた。函館有斗高校(現・函館大学付属有斗高校)所属時に3度の甲子園出場〔1985年夏季(第67回選手権大会)、1986年春季(第58回選抜大会)、および1987年夏季(第69回選手権大会)。〕を経験した。3年時の1987年に開催された第69回選手権大会では、1回戦で上原晃を擁する沖縄水産高校に敗退した。同年秋のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから1位指名を受け、契約金4800万円、年俸420万円(金額は推定)で入団した〔朝日新聞、1987年11月29日付朝刊 (24面)〕。 ルーキーイヤーの1988年5月21日の中日ドラゴンズ戦で一軍デビュー。1992年に監督の江尻亮によって重用されるようになり、中継ぎ投手として登板した出場がほとんど(この年は52試合中46試合)でありながら規定投球回に達し、最優秀防御率のタイトルを獲得した。オールスターゲームにも監督推薦で初出場。佐々木主浩とともに「ダブルストッパー」と呼ばれる。だが球団名が横浜ベイスターズに変更された翌1993年は、春季キャンプ前の自主トレ中に右ひざ靭帯を損傷し、22試合出場に終わる。 1994年に登録名を「盛田 幸妃」から「盛田 幸希」(読みは同じ)に変更。同時に前年引退した斉藤明夫から背番号17を受け継ぐ。この年に右ひじを手術した佐々木に代わり、前半戦のクローザーを務めた。1995年はリーグ最多登板、オールスターゲームに監督推薦で2度目の出場。 1996年に監督の大矢明彦による大規模コンバートの一環として先発投手に転向し、レギュラーシーズン開幕投手を務める。しかし、リリーフとの調整法の違いから制球に苦しむようになり、危険球で退場処分されたのを機に成績が落ち始める。しかし1997年もローテーション投手だった斎藤隆が右肘の手術に伴い戦線離脱する(結局この年は登板なし)など投手不足のために先発陣に据え置かれ、オープン戦で好投したこともあり二年連続で開幕投手(中日戦)となるが、1回裏に立浪和義に先頭打者本塁打を打たれる。この試合はナゴヤドーム初の公式戦であり、同球場の第1号の被本塁打投手となった。7回表の攻撃で一軍初出場の代打多村仁と交代し降板。6回3失点で敗戦投手となり、盛田はナゴヤドームでの敗戦投手第1号ともなった。以後、登板試合数が減少。閉幕後、中根仁との交換トレードで近鉄バファローズに移籍。 1998年に登録名を「幸妃」に戻す。近鉄移籍後はリリーフ専任に戻り開幕から好投していたが、5月末頃から右足首の違和感や麻痺などが起こり次第に状態が悪化、8月13日に一軍登録抹消。検査の結果、ゴルフボール大の髄膜腫(良性の脳腫瘍)が見つかり、9月に摘出手術を受ける。このとき医師から「スポーツ脳に腫瘍があり、普通の生活に戻れても、野球選手としては諦めなければならないかもしれない」と通告されたという。手術後も右足に麻痺が残る後遺症があったがリハビリで克服。驚異的な回復力で翌1999年8月には二軍戦に登板できるようになり、同年シーズン最終戦で一軍復帰した。 2001年6月13日の福岡ダイエーホークス戦、同点の5回裏1死1,2塁で登板してピンチを抑え、7回表にチームが勝ち越して1082日ぶりの勝利投手となる〔http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_june/KFullNormal20080611146.html〕。また、7月4日の対千葉ロッテ戦、同点の10回表無死満塁で登板してわずか2球(一邪飛、遊併殺)でピンチを抑え、その裏にチームがサヨナラ勝ちを収めて2勝目を挙げるなど、この年は34試合に登板して近鉄の12年振りのリーグ優勝に貢献する。オールスターゲームにも中継ぎ投手部門でファン投票1位で選ばれ、カムバック賞を受賞。2015年シーズン終了時点で、パシフィック・リーグから同賞を贈られた最後の選手である。 2002年9月25日に、同年シーズン限りでの現役引退を表明。10月6日のオリックス・ブルーウェーブ戦(大阪ドーム)で引退試合が行われ、5年振りに先発した〔このとき盛田は打者1人のみに投球して降板したが、その打者は盛田と同じ年に大洋に入団した進藤達哉だった(進藤はドラフト外)。〕。同年、球団職員として横浜に復帰した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「盛田幸妃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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