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盧懐忠[のふところちゅう] 盧懐忠(盧懷忠、ろ かいちゅう、919年 - 967年)は、中国の五代から北宋にかけての軍人。本貫は瀛州河間県。 == 経歴 == 若くして膂力にすぐれ、騎射を得意とした。後漢の乾祐元年(948年)、河中に寓居していたが、李守貞の乱が起こって郭威が河中の城を包囲すると、懐忠は夜間に城を抜け出して郭威に面会し、攻城のための便宜をはかった。郭威が河中を落とすと、懐忠は供奉官に任じられた。後周の広順2年(952年)、慕容彦超の乱の征討に従軍した。顕徳元年(954年)、監沂州軍となった。5年(958年)、軍を率いて海州を落とした。6年(959年)、世宗の北征がおこなわれると、懐忠は先遣隊として本軍の行軍路を視察した。益津関・瓦橋関を陥落させると、如京副使に転じた。 宋の建隆元年(960年)、内酒坊副使となった。3年(962年)、趙匡胤は朗州軍の乱に乗じて懐忠を荊南への使者として派遣して、荊南の情勢を調べさせた。懐忠は使者の役目をつとめて帰国すると、荊南の兵が3万にすぎず、民衆が暴政と収奪に苦しんでいる実情を報告した。乾徳元年(963年)、趙匡胤は湖南攻撃を口実に、荊南に道を借りて屈服させようと軍を発した。懐忠は前軍歩軍都監となって従軍した。荊南と湖南が宋軍によって平定されると、功績により内酒坊使となった。 2年(964年)、懐忠は判四方館事となり、知江陵府をつとめた。3年(965年)、宋軍が後蜀を攻撃すると、懐忠は江陵にあって長江流域と三峡を扼し、宋の遠征軍への補給につとめた。客省使に転じた。5年(967年)、南唐への使者に立ち、帰還する途中で病にかかり、肩輿に乗って開封に帰った。趙匡胤は医者を派遣して薬を与えたが、まもなく死去した。享年は49。 子の盧熙は校書郎となった。
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