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相合元綱 : ウィキペディア日本語版
相合元綱[あいおう もとつな]

相合 元綱(あいおう もとつな)は、戦国時代武将毛利氏の家臣。毛利弘元の三男。本来の名字は毛利であるが、所領の名を取って「相合」とした。
== 生涯 ==
安芸国国人領主・毛利弘元の妾腹の子として誕生。異母兄に興元元就がいる。武勇に秀でており「今義経」の異名を取ったと伝わる。永正14年(1517年)の有田中井手の戦いでは、次兄の元就と共に武田元繁を討つなどの活躍を見せた。また、元就とも仲が良かったといわれる。
大永3年(1523年)、甥で当主であった毛利幸松丸(興元の子)が9歳で病死すると、異母兄で正室の子である元就が後継者となることが決定した。これに対し、坂広秀渡辺勝らが、元綱の擁立を画策した。一説には、尼子豊久を毛利氏の娘婿として当主に立て、元綱は後見人となる予定であったとも言われる。元綱らは元就の暗殺を計画したが、それに気付いた元就は先手を打ち、志道広良に300の兵を率いさせて元綱居城の船山城を急襲させた(『陰徳記』によると、対する元綱の手勢は30名余りとされる)。武勇に優れる元綱は広良の軍勢を押し返す抵抗を示すが、最後には体中を射抜かれた後に槍で刺されたと言われる。また、別説では尼子氏の謀略により憤死したとも伝わる。その没年には、大永3年(1523年)8月から大永5年(1525年)3月の間で、諸説ある。
元綱派は尼子氏の有力家臣の亀井秀綱を後ろ盾としており、この内紛に尼子経久の意志が絡んでいることは明白であったため、元綱殺害後、元就は尼子氏から離反し大内氏への接近を図るようになった。
子の元範は幼少であったため、罪を許された。後に敷名を名字とし、備後地方を拠点とする毛利家臣となった。
なお、元就には、子の隆元吉川元春小早川隆景に兄弟の絆を大切にするように諭したという逸話(三子教訓状)が伝わるが、それはこうした悲劇を経験したからであるといわれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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