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相楽ニュータウン : ウィキペディア日本語版
平城・相楽ニュータウン[へいじょう そうらくにゅーたうん]


 
 

平城・相楽ニュータウン(へいじょう・そうらくニュータウン)は、日本住宅公団関西支社初の大規模住宅地として平城山丘陵に開発された住宅都市〔〔〔。暮らしに必要な住宅団地や商業施設、学校の建設をはじめ、公園・緑地、歩行者専用道路等も整備され、快適に暮らすためのあらゆる都市機能を備えている〔小学校マルチメディア教材「奈良県のくらし」 - 奈良県立教育研究所〕。また、国家プロジェクト関西文化学術研究都市の住環境拠点でもあり、単に人が快適に住めるだけでなく、文化・学術・研究の中心になるのにふさわしい町を目指している〔。なお、ニュータウンは府県境を挟んで奈良県側の平城地区と京都府側の相楽地区に分かれており、両地区を合わせて平城・相楽ニュータウンと呼ぶ〔。
== 概要 ==

=== 開発の経緯 ===

大阪市から東に約27km京都市から南方に約29km、奈良市旧市街地から北西約5.5kmに位置し、奈良市側は東西約3.5km・南北約1.0km、京都府側は東西約2.5km・南北約1.0kmにわたる〔〔〔〔〔平田敬一郎・山本三郎・高山英華監修『日本の国土開発 昭和60年のすがた』サンライズ、1972年、〕。古くから平城山と呼ばれた平城京の青垣をなす丘陵地であったが、奈良市域では1955年昭和30年)の奈良県新総合開発計画で住宅地とされたことを受けて近畿日本鉄道京阪電気鉄道などが用地買収し、京都府域でも近畿日本鉄道が買収していた〔。一方、日本住宅公団は、近畿圏基本整備計画において奈良盆地北部の新規宅地面積が約1,000haと予定され、さらに公的機関による大規模な市街地開発に重点を置く方向であったことなどを受け、大阪から約30km圏内でありすでに近鉄京都線が整備されていた平城山丘陵にニュータウンを計画〔〔。日本住宅公団が用地を大手私鉄から引き継き、開発を行った。
しかし、京都府の南山城地域はすでに学園前などの開発が進んでいた奈良市とは違い、まだ都市化が進んでいなかったため広域計画・都市計画から始める必要があったが、京都府側の開発への意識が低いことやニュータウンの南西部を除く大部分が山田川流域に属し、行政界と分水界が異なっていることが影響し、京都府側の相楽地区は開発条件の調整に多くの時間を要することとなる〔〔〔〔。
奈良県側の平城地区は、1965年(昭和40年)12月に公団法第34条に基づいて住宅建設計画と宅地造成計画について奈良県側の知事・市長への意見聴取が行われ、1968年(昭和43年)12月に土地区画整理事業の計画(区域)が決定〔〔。1970年(昭和45年)4月に公団法第36条協議に基づいて施工規定・事業計画を定めるため再び奈良県側の知事・市長への意見聴取が行われ、同年10月に平城土地区画整理事業の認可を受けた〔〔。一方、相楽地区も同様に1966年(昭和41年)9月に公団法34条に基づいて住宅建設計画と宅地造成計画について京都府側の知事・市長に対して意見聴取が行われたが、同年11月に京都府は再協議を求め、その後も日本住宅公団は河川改修計画等の説明・協議、地区公共下水道計画の要望を行ったが、平城地区の宅地債券用地の引き渡し期限や公団賃貸住宅用地の引き渡しなどが近づき、日本住宅公団は木津町と協議を重ねたうえで1970年(昭和45年)3月に覚書を締結してそのことを京都府に報告し、平城地区の造成工事に着手した〔〔。造成工事に着手できたことで日本住宅公団は京都府側との話し合いは付いたと考えたが、実際は奈良市側が開発が進むのとは対照的に京都府側との話し合いは進展しなくなる〔。これは、公害を恐れて下水の完全処理を要求した周辺住民に対して日本住宅公団が十分な解決策を示さなかったため、京都府が慎重な立場をとったためである〔『戦後における京都府政の歩み』京都府政研究会、汐文社、1973年11月15日、〕。
日本住宅公団は農業用水を得るための井戸を掘り、京都大学工学部平岡正勝教授の指導のもと超高級処理場を奈良市に建設するなどしたが、汚染処理水の放流や渋谷川の改修について同意は得られず、木津町が汚水処理水の放流を黙認する形で平城地区の入居開始が1972年(昭和47年)11月に行われた〔。しかしながら、地元から排水同意問題の解決を求められていた木津町当局もそれ以降は日本住宅公団との話し合いで消極的な対応をするようになり、さらに1973年(昭和48年)の精華町町長選挙での政争の混乱も影響して山松川・鹿川・山田川関連の河川改修の話し合いが進まず、相楽地区だけでなく平城地区の開発もそれ以降進むことはなかった〔。そうした中、1972年(昭和47年)10月に日本住宅公団南部哲也総裁と蜷川虎三京都府知事がトップ会談を行い、京都府が開発に協力する意思を表明〔〔。だが、地元の開発への同意がないことには話し合いに出席しないとの立場に変わりはなく、日本住宅公団は地元との交渉に入ったが、平城地区を先行して造成したことの地元民や木津町当局の不信感は根強く、交渉は困難を喫した〔〔。
その後、日本住宅公団は1974年(昭和49年)5月に陣容を新しくして問題点の洗い出しと対処策、問題点の切り離しなどを行ったうえで京都府・建設省と打ち合わせながら木津町・精華町両町への調整工作などを行い、木津町・精華町の開発への姿勢を確認した京都府は関係する各課と慎重に検討を重ねて1974年(昭和49年)9月に都市計画審議会で審議をし、翌月に相楽都市計画土地区画整理事業が成立〔。平城地区でも事業が遅れていることから施行期間を延長するため第1回事業計画変更認可の手続きが進められ、1975年(昭和50年)12月に認可された〔。そして、汚染処理水の問題は汚水処理水の放流を1975年(昭和50年)2月に地元が同意し、解決〔〔。1977年(昭和52年)8月に京都府・奈良市と日本住宅公団が河川改修工事の施行方法・施行分担などを定めた覚書を交換した〔。山松川への放流同意が得られたことで、平城地区の近鉄京都線東側での大規模な造成工事が開始〔。相楽地区でも1976年(昭和51年)5月に日本住宅公団南部総裁が蜷川京都府知事に事業促進について協力を要請したのを契機に1976年(昭和51年)5月に日本住宅公団と木津町が、同年7月に日本住宅公団と精華町が開発に関する基本協定を締結し、公団法36条協議を開始〔〔。1978年(昭和53年)3月に相楽都市計画事業相楽土地区画事業が認可され、1986年(昭和61年)4月に入居が開始された〔。
1987年(昭和62年)10月には関西文化学術研究都市の文化学術研究地区に編入され、住宅都市としての整備と併せて、生活関連の文化学術研究施設の集積立地、都市的サービス施設等の整備を推進している〔関西文化学術研究都市の建設に関する基本方針 第4章文化学術研究地区の配置及び整備の方針 - 国土交通省〕。当初は住宅地区に指定される予定だったが、地元からの研究地区への昇格を望む声を受け、ハイタッチ・リサーチパーク構想などが考慮されての編入であった〔「学研都市建設基本方針、平城・相楽は研究地区 精華・西木津に交流施設」『日本経済新聞』1987年10月2日付、地方経済面近畿A〕。文化学術研究地区に指定されたことで相楽地区では計画住宅用地が学研施設用地に変更されてハイタッチ・リサーチパークが誘致され、平城地区でもならやま研究パークが造られた〔〔。なお、精華町域は当初から研究施設は計画されていない〔「大字小字 204 精華町桜が丘 花の名所今は住宅街」『京都新聞』2008年11月11日付、山城版、第25面〕。
平城地区は1987年(昭和62年)に、相楽地区は1994年平成6年)に開発が終了したが、その後も空いている土地での施設建設や入居は続いている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「平城・相楽ニュータウン」の詳細全文を読む



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