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相沢事件 : ウィキペディア日本語版
相沢事件[あいざわじけん]

相沢事件(あいざわじけん)は、1935年昭和10年)8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、統制派永田鉄山軍務局長を、陸軍省において白昼斬殺した事件である。被害者側の名前から、永田事件、永田斬殺事件とも言う。
統制派による皇道派追放への反発(磯部浅一村中孝次の停職に憤激)が動機であり、その後の二・二六事件に繋がった出来事の一つである。
== 概要 ==
1931年三月事件満州事変十月事件が起こり、日本陸軍においては国家総力戦を戦い抜くため、統制経済による高度国防国家への国家改造を目指す統制派が革新派の青年将校皇道派と対立し、1934年11月の士官学校事件、1935年7月の皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭〔陸軍将官の人事決定は三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の協議の上でなければやらないという、大正二年に大正天皇の裁可を得た規定を破り、教育総監の意志を無視して二長官だけの決議で教育総監を罷免した事件〕により、反対派を一掃しようとした。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎は「これは真崎一人の問題ではなく陸軍の人事の根本を破壊するものだから承知できん」と反論した〔真崎の反駁に対し林陸相は苦し紛れに「これは実は南大将と永田局長との策謀で、南大将は自分に火中の栗を拾わせようとしている。満州から帰ってからこの策謀は激しくなった」と言った。〕〔1935年(昭和10年)8月1日夜、陸軍省整備局長山岡重厚中将が林銑十郎陸軍大臣と会談し、「真崎大将はなぜに免ぜられたるや?」という山岡の質問に対し、林大臣は「南、永田の工作にしてその他稲垣次郎中将(閑院宮別当)、鈴木壮六大将(前参謀総長)、植田謙吉、林弥之吉中将らより総長宮に申し上げ、殿下は真崎の現役を免ぜよとの御意なりしも、総監を免ずるだけとせり」と返答した。(菅原裕『相沢中佐事件の真相』)〕。皇道派の将校らは林大臣の行動を統帥権干犯と非難した。
1934年(昭和9年)12月31日の夜、士官学校事件の背後に永田鉄山がいると判断した相沢は、「こんど上京を機に永田鉄山を斬ろうと思うがどうか」と大岸頼好大尉に相談したが、大岸が反対し断念した〔末松太平『私の昭和史』〕。
1935年(昭和10年)6月、林陸相と永田軍務局長の満洲・朝鮮への視察旅行中、磯部浅一村中孝次河野寿は永田を暗殺しようとした。
義憤を感じたとされる相沢は、総監更迭の事情を確かめようと、1935年7月18日に上京。翌19日陸軍省軍務局長室において永田少将と面談し、辞職を勧告して一旦帰隊した。
相沢は真崎の更迭に際して配布された「教育総監更迭事件要点」や「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題する怪文書を読み、教育総監更迭の「真相」を知って統帥権干犯を確信した。また「粛軍に関する意見書」を読み、磯部浅一村中孝次の免官(8月2日付)〔2人を行政処分によって免官とした。陸軍の内規によると、将校は身分保障制度があり、受恩給年限に達する前には行政処分による免官はできない。裁判によるべきこととなっていた。2人はこの処分を、非合法なりとして反対し、われわれは、軍の改革を叫んでも非合法手段はしないという方針だったが、上で非合法をやるなら、俺たちも非合法を採らざるを得ないというにいたった、と荒木貞夫は述べている(荒木貞夫『荒木貞夫風雲三十年』)〕を知ると、このままでは皇道派青年将校たちが部隊を動かして決起し、国軍は破滅すると考え、元凶を処置することによって国家の危機を脱しなければならないと決意した〔。
台湾転任を前に、8月11日に上京。途中、伊勢神宮明治神宮に参拝して、「もし、私の考えていることが正しいなら成功させて下さい。悪かったならば不成功に終わらせて下さい」と、祈願したという。
8月12日午前9時30分頃陸軍省に到り、相沢が一番尊敬していた山岡重厚整備局長を訪ね、談話中に給仕を通して永田少将の在室を確かめた後、午前9時45分頃、軍務局長室に闖入して直ちに軍刀を抜いて永田に切りかかり、次いで刺突を加えて殺害した。
決行後整備局長室に戻って「永田に天誅を加えた」と告げた。山岡は予想外の表情をしたが、永田を刺突した際に刀身を持ったため出血している左手をハンカチで縛り、たまたま来室していた大尉に医務室へ案内させた。途中、永田局長の一の子分といわれた新聞班長根本博大佐が駆け寄ってきて、黙って固い握手を交わした。また、調査部長山下奉文大佐が背後から「落ち着け落ち着け静かにせにゃいかんぞ」と声をかけた。こうした陸軍省内の様子を見て「ありがたい、維新ができた」と内心感激した〔菅原裕『相沢中佐事件の真相』〕。
事件を受けて、綱紀粛正のため陸軍省では9月から10月にかけて首脳部の交代が行われた。林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任し、川島義之陸相、古荘幹郎陸軍次官、今井清軍務局長、村上啓作軍務課長の布陣となった。〔大前信也「陸軍の政治介入の淵源について(Ⅱ)-陸軍予算と二・二六事件-」(『政治経済史学541』)〕。
第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、1936年(昭和11年)1月28日第1回公判が開始された。裁判長は判士、陸軍少将第一旅団長の佐藤正三郎、検察官は法務官の島田朋三郎、弁護人は弁護士、法学博士の鵜沢総明、特別弁護人、陸軍歩兵中佐の満井佐吉であった。公判は、問題が教育総監更迭に関し、勅裁を受けている大正2年の省部規定を蹂躙した軍首脳部の行動が統帥権干犯となるや否やに絞られ、林陸相の行動が統帥権干犯となるか、林陸相にあえてそれを行わせた永田軍務局長に陰謀の事実があったかどうかが、事件の焦点となった。
軍法会議は2月12日の第6回公判において、陸軍次官の橋本虎之助中将を、2月17日には陸軍大臣の林銑十郎大将を、2月25日には前教育総監の真崎甚三郎大将を証人として喚問し、軍機保持上公開を禁止した。しかし、三証人とも、職務として関与したものであるから勅許をまたずしては証言できない、と肝心の点については証言を拒否した。
鵜沢、満井両弁護人は勅許を仰いで真崎大将を再喚問するよう申請するとともに、斎藤実内府、池田成彬木戸幸一井上三郎唐沢俊樹警保局長、下園佐吉(牧野前内府秘書)、太田亥十二を証人喚問することを申請した。
軍法会議は勅許奏請の手続きを執らなければならない段階となり、軍中央部も反対することはできなくなった。ところが2月26日払暁に二・二六事件が勃発した。
二・二六事件により一時中断されたが、4月22日に第11回公判を再開した。裁判長は判士、陸軍少将の内藤正一に変更され、裁判官も変更があった。また、弁護人も菅原裕弁護士と角岡知良弁護士に変更となった。裁判長は公開停止を宣言し、一般公衆の退廷を命じた。5月1日の第14回公判終了まで非公開のままで、証拠申請はことごとく却下された。
同年5月7日死刑の判決が言い渡された。翌8日に上告したが、6月30日上告棄却が言い渡され、死刑判決が確定した。1審、2審とも判決内容が事前に漏れていた。
同年7月3日午前5時、東京衛戍刑務所内において、判決謄本の送達さえ行われず、弁護人の立ち会いも許されず、銃殺刑は執行された。
鷺宮の相沢家では供養が行われた。夜になって荒木大将が弔問した〔荒木、真崎が中佐の背後にあるがごとくデマを飛ばし、両名を中佐とともに葬り去ろうとの陰険な策動が軍中央部で行われていたときであったので、弔問は控えるべきだとか、軍服でなく私服で行くべきだと荒木の知人たちは忠告したが、荒木夫人が「相沢さんが国を思うご一念から倒れられた以上、弔問されるに何の遠慮がいりましょう。いわんや現役軍人であられる閣下が、軍服で行かれることは当然すぎるほど当然で、遠慮される必要はありますまい」と毅然と言い、荒木は憲兵の監視する相沢家へ堂々と軍服で弔問したという(菅原裕『相沢中佐事件の真相』)。〕。7月5日、真崎大将が弔問した。寺内陸相は花輪を供えようとしたが、側近に遮られたという〔。
なお、事件発生時は永田は軍務局長室で陸軍内部の綱紀粛正(過激さを増していた皇道派の青年将校に対する抑制策)に関する打ち合わせを行っており、兵務課長山田長三郎大佐と東京憲兵隊長新見英夫大佐が在室していた。新見大佐は怪文書について報告しており、軍務局長の机の上には、「粛軍に関する意見書」が開かれていた。相沢の襲撃に気づいた新見大佐〔新見大佐は下を向いて報告していたので、すぐ右側を走り抜けた相沢に気づかず、正面に来て初めて気づいた。視野狭窄におかされ白内障も併発していたという(岩田礼『軍務局長惨殺』)〕は、永田をかばって相沢に斬りつけられ、重傷を負ったが、山田大佐は局長室から姿を消していた〔実際には、山田大佐は局長室にいて、ついたてのところで「相沢、よせ、よせ」と口走るばかりであったという(岩田礼『軍務局長惨殺』)。〕。この事情について山田大佐は事件後、「自分の軍刀を取りに兵務課長室へ走って戻り、軍刀を持って局長室にとって返した時には局長は殺害され、相沢は立ち去った後だった」と弁明したが、軍内部及び世間から「上官を見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い」と批判され、さらには相沢と通じていたのではないかという噂までささやかれるに至った(この山田の不可解な行動についてNHKが「歴史への招待」という番組の中で取り上げ、疾病による視野狭窄のために周りがほとんど見えない病状にあったからでは、という説を紹介している)。このため、山田大佐は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で自決した。
永田が殺されたとき大川周明は「小磯がバカだからこんなことになった。あの書類〔永田が立案作成した三月事件の計画書。事件が未遂に終わった後、計画書は焼却することになったが、小磯がその一部を軍務局長室の金庫に入れたまま忘れてしまい、後任の山岡重厚が問題の計画書を手に入れたということである。〕さえ始末しておけば永田は殺されずにすんだものを……」と嘆息したという〔岩淵辰雄『軍閥の系譜』〕。
社会民衆党亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方はカウンター・クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」ということを述べている〔日本近代史料研究会編『亀井貫一郎氏談話速記録』〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「相沢事件」の詳細全文を読む



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