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相良定頼 : ウィキペディア日本語版
相良定頼[さがら さだより]

相良 定頼(さがら さだより、生年不詳 - 文中元年/応安5年8月25日1372年9月22日))は、南北朝時代武将相良氏の第6代当主。第5代当主相良頼広の長男。幼名を八郎、通称は八郎または兵庫允とされる。
== 略歴==

===建武の新政後===
南北朝の動乱期において、相良氏の宗家・分家は双方の陣営に分かれて戦った。相良家内の争いは定頼の代では収まらず、以後約100年続くことになる。
建武2年(1335年)、父頼広日向国で足利家の所領を攻撃した一方で、定頼と祖父長氏入道は、当時九州で最も有力な武士であった少弐貞経少弐頼尚親子に服属して、武家政権を支持した。
父頼広から家督を譲られた時期は不明で、両者がどのような関係であったのかよくわかっていない。相良家では隠居した長氏の影響力が強く、孫の定頼は早くから次期当主として遇されていたため、隠居したものの頼広よりも長命だった第4代当主の長氏から、実際上は直接家督を譲られたとも考えられるが、系図上は定頼を第6代当主とする。
建武3年/延元元年(1336年)、大隅国の南朝方肝付兼重を討伐せよとの足利尊氏教書を受け取たが、球磨郡内に南朝支持者が多くて動けず、家臣の税所宗圓(宗円)を派遣した。他方で新田義貞攻めの兵を京師へ送るようにも指示されたが、これに応じて家臣の税所延継が兵を率いて上京したようであるが、ほどなく足利尊氏は京を追われ、豊島河原合戦で敗れ、九州に落ち延びて少弐頼尚に迎えられた。
この政変の影響で、球磨郡でも多良木経頼〔分家の上相良氏の当主で、相良経頼(經頼)とも言う。経頼は、初代当主長頼の次男頼氏の孫にあたる。〕が義兵(南朝)を上げて蜂起。定頼はこれと戦うのに忙しく、足利・少弐に援兵を送ることはできなかった。定頼は木上城を攻略するが、上球磨の多良木氏の勢いは衰えずになかなか鎮定できなかったので、尊氏が九州探題として残した一色範氏は家臣橘公好を派遣して助力させた。また今川助時肥後国の鎮定に派遣していたが、彼は榊源三郎をして名和氏(南朝)の代官内河義真が守る八代城(球磨への交通の要所)を攻めさせた。
延元2年/建武4年(1337年)4月、相良氏一族で一武〔旧村名で、現錦町内にある地名。〕の地頭犬童重氏〔初代当主長頼の六男頼員の孫の相良頼重の子孫。〕が上京して北朝軍に加わって軍功を上げた。同年10月、筑前国嘉摩郡での合戦に、定頼は大蔵松石丸を名代として豊前成恒荘より兵を出した。しかし依然として球磨郡は鎮定されていなかった。
延元3年/建武5年(1338年)の初め、一色範氏は南朝方の南肥後の拠点となっていた多良木経頼を討つべく、相良定長(孫二郎)〔続柄不明。相良同族だが、肥後国の球磨郡以外の場所の荘園地頭らしい。経頼を討った後、その旧領の一部を恩賞として貰っている。〕を球磨に下向させた。他方、菊池武重との決戦を控えた少弐頼尚は、相良氏を懐柔して味方に留めておくために初代長頼の時代に没収された人吉庄北方の所領(旧北条氏領)を、長氏への恩賞として与えた。長氏入道はこの所領を孫に譲り、定頼は名実ともに人吉城主となった。
興国元年(1340年)、叔父相良祐長が長氏に不満〔この頃、頼広が亡くなったと考えられ、祐長は長氏が(恐らくまだ若年だったと思われる)定頼を後継とすると決めたことに反対したらしい。〕を持って、経頼に内通して、山田城〔もともと相良祐長が城主であった。〕にいた少弐頼尚の代官を放逐して南朝に従うことを宣言し、定頼に反旗を翻した。少弐頼尚は怒り、相良定長にこれを討つように命じた。同時に一色範氏も、相良定長と相良長氏に軍勢催促状を出して討つように命じた。しかし多良木経頼は頑強に抵抗したので、少弐頼尚は甥の筑後経尚を名代として送った。経尚は相良定長・相良景宗・税所宗圓などを率いて、経頼と祐長を分断するために中球磨にある砦を次々と落とした。経頼は城を出て野戦したが、築地原合戦で敗れて退いた。経尚は西に戻って山田城を攻囲して落とし、東に進んで多良木氏の根拠地である鍋城を攻略した。経尚は城から脱出した南朝諸将に対して警戒を怠らぬように定頼に訓示して帰還したが、経頼・祐長は西村〔錦町内の旧村落名。〕にある小牧城に再び立て籠もった。
興国2年(1341年)、定頼は小牧城を攻撃したが落とせなかった。興国3年(1342年)、少弐頼尚は再び相良定長らに攻撃を命じたが、今度は逆に多良木経頼の反撃にあって、久米郷木原合戦では双方に大きな被害があった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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