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相良寺 : ウィキペディア日本語版
相良寺[あいらじ]

相良寺(あいらじ)は、熊本県山鹿市菊鹿町相良にある天台宗の寺院。九州四十九院薬師霊場第31番札所。肥後西国観音霊場第33番札所。山鹿三十三観音霊場第33番札所。通称は相良観音
== 歴史 ==
比叡山延暦寺の末寺で、弘仁5年(814年)、伝教大師最澄の開基と伝えられるが、開基は肥後出身の僧・俊芿との説もある〔『肥後国誌』による。なお、最澄(767~822年)と俊芿(1166~1227年)では、活動時期に約400年の開きがある。〕。
朱雀天皇の時〔相良観音縁起による。『肥後鹿本吾平山相良寺』4頁は「朱雀天皇の天慶年中」と書き、相良寺オフィシャルページや、『熊本・観光文化検定 公式テキストブック』188頁も朱雀天皇と書く。例えばオフィシャルページ「相良寺の縁起と由来」では、「61代朱雀天皇の時代、皇后さまが子宝に恵まれなかったのか、ご出産で苦しんでおられたのか定かではございませんが、当時、皇室の勅使がご来山になり、7日間本堂にこもられ一心にご祈願されたところ、無事に62代の村上天皇さまがお生まれになられた」と説明されている。もっとも、村上天皇の出生は延長4年(926年)であるが、朱雀天皇は延長元年(923年)の出生で、この時まだ幼児で即位もしていない。朱雀天皇は村上天皇の兄で、延長4年当事の天皇は、村上天皇らの父である醍醐天皇(在位897~930年)である。〕、あるいは、後朱雀天皇の時〔『肥後国誌』は「後朱雀帝ノ皇后当寺ノ観音ニ祈リ給ヒ皇子御降誕ト云リ」との伝を載せる。その他、後朱雀天皇と記すものに『鹿本郡誌』604頁、『くまもと』66-67頁、『熊本県大観』鹿本郡案内5-6頁、『熊本県の地名』164頁など。〕〔朱雀天皇の在位は930~946年、後朱雀天皇の在位は1036~1045年と、両者には約100年の開きがある。〕というが、皇后の安産祈願のため勅使が下向し、この寺に参籠したところ、無事に皇子が誕生したと伝えられ〔朱雀天皇に皇女(昌子内親王)はあるが皇子はない。昌子内親王の出生も朱雀天皇退位後、村上天皇の天暦4年(950年)である。〕、安産や子育てに霊験があるとされる。
治承・寿永の乱(源平合戦)の際、平氏方であった菊池隆直の兵が相良の地に籠もり、これを攻めた源氏方の緒方惟栄が寺を焼き討ちにしたため、本堂や多くの坊舎を焼失した。
寺の付近に自生する天然記念物アイラトビカズラの名は、寺が焼き討ちにあった際、千手観音カズラに飛び移ったという伝説に由来する。
正平年間、菊池武光が寺を再興。以後、菊池氏歴代の帰依を受け、菊池氏没落後は国人・隈部氏の信仰を受けた。
現在の本尊は、室町時代後期の作で、山鹿市指定文化財となっている丈六座身の千手観音像。高さ約3.4メートル、檜の寄木造りで、永正14年(1517年)作の胎内銘がある。木彫座像としては国内最大である。
なお、この観音像は生首を提げているが、緒方惟栄が寺に火をかけたことを怒り、惟栄の首を取ったものと伝えられる。
明治に入り廃寺となったが、明治10年(1877年)、再興されて現在に至る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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