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相馬 崇人(そうま たかひと、1981年12月10日 - )は、神奈川県出身のサッカー選手。ポジションはMFまたは、DF(左サイドバック)。国士舘大学卒。元日本代表。 家族は妻と二子(一男一女)にゴエモン(愛犬)。 == 来歴 == 東京ヴェルディ(東京V)の下部組織出身。東京V所属時は同じくユース出身の平本一樹、戸川健太の3人を称し「81年組」と呼ばれていた。ヴェルディユースから直接トップチームには昇格せず、国士舘大学に進み日本フットボールリーグでのプレーを経験。2003年に東京Vに入団(サッカー部は退部したが大学生のままプロ入りし、その後に卒業)。 2004年には、左SBレギュラーだった三浦淳宏が日本代表に招集されチームを離れる期間にアルディレス監督が相馬を抜擢し、三浦が代表からチームに戻ってきてからも相馬をそのまま起用し続け、三浦から左サイドのポジションを奪取した(三浦はその後、神戸に移籍)。2005年シーズンは3バック採用時は左ウイングバック、4バック採用時は左サイドバックとして1年間レギュラーで活躍。このシーズンは東京VはJ2降格となったため、J1でのプレーを希望して浦和レッドダイヤモンズへ完全移籍。 浦和の左サイドには三都主アレサンドロがおり、2006年はその控えという立場だった。三都主が欧州移籍のため退団した2007年はレギュラーとして開幕を迎えたが、夏場に調子を落とすと平川忠亮にポジションを奪われてしまった。その後、12月のクラブワールドカップでは先発に返り咲いた。2008年は浦和移籍後では初の1年間通してのレギュラーで活躍。これまでの左サイドからのチャンスメーカーとしてだけでなく、自己最多の公式戦4得点をマークした。 浦和との3年契約を満了し、念願の欧州移籍を模索していた2008年のシーズンオフ、ドイツ・ブンデスリーガ2部のフライブルクから獲得を前提にした練習参加のオファーを受けるも交渉が長引いたために渡独直前で消滅。 浦和残留が濃厚と見られていたが、2009年1月12日、欧州移籍の実現に向け、移籍先の決まらないまま浦和を退団。 その後、欧州のチームが200近く集まりトレーニング合宿を開いているトルコで、オファー待ちのブラジル人選手同士で作ったブラジル選抜に加わり、他チームと試合をしながらオファーを待った。 1月28日、ポルトガル1部リーグのマリティモと契約。日本では1年半契約で推定年俸30万ユーロ(約3500万円)と報じられたが雑誌のインタビューにより日本円にして600万円の年俸であったことが判明した。 マリティモではリーグ戦通算27試合に出場。2010年4月3日のポルト戦では移籍後初得点を記録するなどしたが、これらの結果に満足していないこと、また生活環境上の理由から、マリティモとの契約を更新する意思がないことを明らかにした。同年6月10日、エネルギー・コットブスに移籍。チーム初の日本人プレイヤーとなった〔http://www.fcenergie.de/news/news.php?ID=5906〕。2011年6月、自らの希望により、契約を解除し退団。 同年7月より、Jリーグ・ヴィッセル神戸に移籍。2年半ぶりに日本でプレーする事となった。加入直後に肉離れにより離脱するも終盤に復帰し、甲状腺炎を患った茂木弘人に代わる左サイドバックとして積極的な攻撃参加でチーム初の1桁順位達成に貢献した。 2012年は低迷するチームの中で、途中故障による離脱もあったが、食事制限等による肉体改造に取り組み、夏場頃から好調をキープし奮闘した。ヴィッセルはもつれ込んだ残留争いの末、最終節でJ2降格が決定してしまったものの、相馬は自身のブログで早々にチーム残留を明言した。 自身初のJ2での戦いとなった2013年は、肉離れにより二度の離脱を余儀なくされるなど怪我に悩まされたシーズンだった。相馬は18試合の出場にとどまったが、ヴィッセルは一年でのJ1復帰を決めた。 2014年シーズンは主将に任命された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「相馬崇人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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