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真宗大谷派八尾別院大信寺 : ウィキペディア日本語版
真宗大谷派八尾別院大信寺[しんしゅうおおたには やおべついんだいしんじ]

真宗大谷派 八尾別院大信寺(しんしゅうおおたには やおべついんだいしんじ)は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。「八尾御坊」とも呼ばれる。
== 歴史 ==
石山合戦の講和に端を発する本願寺の内部対立と並行して、河内国渋川郡久宝寺村(久宝寺寺内町)においても講和派の顕証寺(久宝寺御坊)と抗戦派の慈願寺による内部対立が発生した。やがて本願寺が東西に分裂すると、顕証寺は西本願寺派、慈願寺は東本願寺派に属し、関係はさらに悪化した。
慈願寺と森本行誓ら17人の民衆らは、顕証寺と安井氏による久宝寺村の支配に異を唱え、徳川家康に仲裁を願い出たが認められず、慶長11年(1606年)11月、久宝寺村を出ることとなった。移転先は家康から東本願寺第十二世住職の教如に寄進された若江郡八尾(現在の八尾市中心部)で、古大和川(現在の長瀬川)を挟んで久宝寺村の東にあたる。
慶長12年(1607年)3月、教如によって八尾に大信寺(八尾御坊)が建立され、移転集落は若江郡寺内村と称するようになり、以降、大信寺を中心とする八尾寺内町へ発展していく。万治3年(1660年)に現在地へ移転され、南隣には八尾移転の際に破却された慈願寺が再建された。 最盛期には、大信寺の境内地の規模は約440m四方にもおよび、大信寺直轄の門徒は300戸あったとされる。
明治5年(1872年)、東本願寺の別格別院となり、別院大信寺と称するようになった。
昭和42年(1967年)、京都大学建築研究協会(当時)の棚橋諒博士設計による、現在の本堂山門鐘楼納骨堂が落成する。鉄筋コンクリート構造のモダン建築である。
旧本堂は明和4年(1767年)の建立であった。天明の大火(1788年)で東本願寺が被災した際、大信寺本堂が東本願寺に移築されて御影堂となったが、東本願寺の復興に伴い、寛政11年(1799年)に八尾に再移築されている。その後昭和28年(1953年)3月2日に旧本堂が白蟻の被害によって倒壊。この旧本堂の部材は東京都港区の善福寺に運ばれ、昭和36年(1961年)より同寺の本堂として使用されている〔東京都港区公式サイト 、2012年9月8日閲覧。〕。なお、真宗大谷派桑名別院本統寺の山門と鐘楼も八尾別院から移されたものである〔桑名市公式サイト 、2011年10月22日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「真宗大谷派八尾別院大信寺」の詳細全文を読む



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